オープニングストーリー

 

声 ルース:漣 磨紘  ベルティルデ:杜和佑紗

◆プロローグ
 世界が海に呑まれてから二年が過ぎた。
 人類はこの星から一掃されたかに思えたが、深い海の底に水魔法による障壁を張り、かろうじて生き残った人々がいた。
 ドーム状に張り巡らされた障壁の直径はおよそ六キロメートル。
 そこに約二千人がひっそりと暮らしている。
 今は障壁の外へ出ることができない彼らは、世界がどうなったのか知る術もなく、閉ざされた空間で明日を憂いていた。
 いつか、ここを発つ箱船がすべてを明かしてくれると信じて。


◆第一章 一日の始まり
 午前五時。
 濃い闇の中、魔法学校の敷地内にある旧天文塔に、点々と灯りが集まっていた。
 今日の分の人工太陽を打ち上げる火属性魔術師が持つランタンの灯りだ。
 全員が防寒着を着込み、灯りに照らされたところに白い息があった。
 人工太陽が昇っている間の気温は、だいたい春の気温になる。
 しかし夜間は四度前後まで冷え込む。
 各家では火の魔法などで暖を保ち、できる限り厚着をして寒さをしのいでいる。
 そのため、体の弱い者は死んでいった。
 魔術師達は手にしたランタンで足元を照らし、旧天文塔の階段を上っていく。
 会話はない。
 黙々と足を動かし頂上に出ると、冷たい空気に身を震わせた。
 ここから北西に建つ水の神殿のほうを見ると、明かりがぽつりぽつりと見えた。
 人工太陽打ち上げの準備が始まる。
「方角……よし。角度……よし。熱を込めてくれ」
 合図で、人工太陽打ち上げ用に開発された射出機と接続された魔法動力変換器に、火魔法の熱が込められていく。
 これらの機械は、貴重な魔法鉱石を組み込んで作られたものだった。
 魔法鉱石の数がもっとあれば、もっと性能の良い射出機やもっと熱量のある人工太陽を作ることができたのだが、ここではこれが限界だった。
 計器を注視していた魔術師が、
「いいぞ……順調に変換、増幅中。あと少しだ……やめ!」
 魔術師達が一斉に魔法の発動を止めると、魔法具の準備が整うのを待っていよいよ発射だ。
「二十秒後に発射する!」
 いつも通りの手順が進んでいく。
 発射時、けっこうな音が出るので、魔術師達はできるだけ射出機から離れて耳をふさいだ。
「三……二……一」
 ドォン!
 午前六時。今日も無事、東の地平線より少し上に人工太陽が姿を見せた。
 これからこの人工太陽は、約十二時間かけて西へ移動していく。

 仕事を終えた火属性の魔術師達が塔を下りて出てきた。もうランタンはいらない。
 夜明けの薄明りの中、彼らは少し疲れた顔をしていた。
 まだ七歳のミヤビ・シウカは周りの大人の魔術師以上に消耗していたが、表情は明るい。
「今日は大成功だったのぅ! すべては、わしのおかげじゃな!」
「何がわしのおかげだ。たまたまうまくいっただけだろ。調子に乗るなよ」
 呆れ顔で言ったマティアス・リングホルムを、ミヤビはムッと睨みつけた。
「いつもいつも無礼な奴じゃ。今日こそその曲がった性根を叩き直してやるわ。そこへなおれ!」
「はいはい、今日の奇跡はアナタサマのおかげですぅ」
 ふざけた口調のマティアスと、ますますいきり立つミヤビの間にマルティア・ランツが割って入った。
「まあまあ。ミヤビがうまくできたのは事実でしょ。マティアスも、そこは認めたら?」
 やわらかな口調でマルティアに言われ、マティアスもさすがに子供っぽい態度だったかと反省した。
 しかし、認められたミヤビはマルティアの後ろで、ニヤニヤとマティアスを笑っている。
 マティアスは、反省をなかったことにした。
「おごるなよ。……帰る」
 ミヤビへの一言を最後に、マティアスは身を寄せている親友の両親の家に帰っていった。
 その背中を見送るミヤビは、不満そうに呟いた。
「わかっておるわ」
「マティアスも心の中では褒めてると思うわよ。明日も今日の感触を忘れずにがんばろうね」
 マルティアにやさしく頭を撫でられ、ミヤビは機嫌を直した。
 それからマルティアは他の火の魔術師達に挨拶をして、ミヤビと共に帰路についた。

 公国貴族グティスマーレ家。
 閉ざされたカーテンの隙間から朝日が差し込む。
 ベッドにもぐりこみ、徹夜で魔法に関する本を読んでいたシャンティア・グティスマーレは、憂鬱そうに眉を寄せた。
 それは十三歳の少女には似つかわしくない表情だった。
 これから始まることを思ってため息を吐き、抵抗にならないとわかっていても、本を閉じてさらに深く布団にもぐる。
 丁寧なノックの後、メイドが部屋に入って来る。
「おはようございます、お嬢様」
 明るいメイドの声が怖い。
 しかしメイドは慣れたもので、ためらいなく布団をはいだ。
「朝食は野菜たっぷりのミネストローネですよ」
 メイドの手により、テキパキと着替えさせられていく。
 『着替えくらい自分でできる』『自室で食事をしたい』何度そう言っても、聞き入れてもらえなかった。
 学校に通うこともなく、いわゆる引き籠りなのだ。
 そして、その時間が長かったため、単純に部屋の外が怖いのか、それとも今の世界が怖いのかわからなくなってきていた。
 この問題は、解決したほうがいいのだろうか?
 とりあえず、もう少し続く苦痛の時間を乗り越えたら、また読書の続きをしようとシャンティアは思い、一生懸命話しかけてくるメイドに適当な返事をしたのだった。

 再び、魔法学校敷地内。
 ここは周囲を森に囲まれた静かなところだ。
 校舎も田舎にしては洒落た木造で、森の景観と良い調和を生み出している。
 学生寮もまた木造で、残った生徒達が身を寄せていた。
 サクラ・アマツキもその一人だ。
 彼女の朝は早い。
 サクラは、日の出と共に庭に出て剣の鍛錬をしている。
 父から譲り受けた刀で、丁寧に型をなぞる。
 一時間ほど汗を流した後は、庭の手入れだ。
 東方の島国から来て洪水にあったサクラには、もう仕送りしてくれる人もいないので、生活費や学費は自分で稼ぐしかない。
 そこで、早朝や放課後に敷地内の庭の手入れや掃除をして生計を立てていたのだ。
 いよいよ型の締めに差し掛かった時、どこからか人の嘆く声が聞こえてきた。
 刀を下ろし声がしたほうを見やると、痩せぎすで栗色の髪の青年が庭木相手にこぼしていた。
「レイザに決定権がないとなると、いったい誰なんだ? 伯爵か? えー……会えると思ってんの? でもなぁ……う~ん、やっぱ作物との兼ね合いかな……」
「悩み事でござるか?」
 サクラの呼びかけに、青年──オーマ・ペテテはビクッと肩を揺らした。
 ハッと振り返ってサクラを見て、周りを確認して、ようやく自分がどこにいるのか把握する。
 旧天文塔を下りて考え事をしていたら、いつの間にか庭に来ていたようだ。
 ふと、オーマはサクラに聞いてみた。
「ここの夜はあまりにも暗いと思わないかい?」
「そうでござるな。月も星もないから、余計に暗く感じるでござるよ」
「そこで、レイザに日蝕を提案したんだ」
「うん?」
 夜の話から急に日蝕の話に変わりサクラは首を傾げたが、まずは話の続きを聞くことにした。
「太陽から減らした分の熱量で、月や星の明かりを灯せる日があってもいいと思ったんだよ。でも、レイザにはそのへんを決める権限はないんだって」
「ふむふむ」
「火の魔術師の誰にもそんな権限はなくてね。あるとすれば伯爵かなって。けど、気軽に会える人じゃないし……」
「うむ……すまぬ。よそ者の私では役に立てそうにないでござる……」
「いやいや、いいよ。いきなりだったのに聞いてくれてありがとね」
 オーマは笑顔でお礼を言った。
「オーマどの、朝餉はもうお済みかな?」
 サクラはオーマを元気づけようと、朝食に誘った。

◆第二章 魔術師の卵達1
 魔法学校では、午前八時半までの登校が原則となっている。
 つまり、その時間を過ぎれば遅刻だ。
 洪水前に比べて生徒数が減っても、遅刻者は出るもので。
「ほーっほっほっほ! ずい分遅いお越しですわね! あらあら、今日もいつもの顔ぶれじゃありませんか」
 魔法で宙に浮いたエリザベート・シュタインベルクが、完全に見下した態度で遅刻者数人をあざ笑う。
 ちなみに彼女は一番に教室に入っている。
 HRまでの暇つぶしに校門に来ていたのだ。
 憎たらしい口調に、遅刻者達はエリザベートを忌々し気に睨みあげた。
「よぅ、チビスケ。今日も高いところからか? ま、そうだよな。地面に立ったら、うーんと見上げないと話もできないもんな。首が疲れちまうよな」
 憎まれ口を返した生徒に、他の遅刻者が笑い声で追従する。
 エリザベートから笑顔が凍った。彼女は背の低さを指摘されるのが何より嫌いだ。
「時間も守れない半端者が何かさえずってますわね。あら、そういえば今日は小テストがありましたね。当然、一番は私ですけれど、どこぞのどなた様は……ふふっ、これ以上はかわいそうかしら」
 チラッと含みのある視線を遅刻者達に投げる。
 両者の睨み合いにますます熱が入って来た時。
「おーい、君達ー! 全員遅刻かなー?」
 駆け寄って来た教師のハビが集まっている生徒の顔を確認し、持っていたバインダーに挟んだ名簿に印を入れようとしていた。
「ちょっと、私は違いますわよ!」
「うんうん。早く教室に行こうね。それと、上手に浮いてるけどあんまり高く浮くと見えちゃうよ」
 教師の発言に動揺したエリザベートは、集中力を失い落下してしまった。
 遅刻者達はそれを笑いながら駆け抜けていく。
 エリザベートは恨みがましい目で教師を見上げた。
「あ……ごめん」
 彼は気まずそうに謝り、エリザベートに手を差し延べた。

 魔法の基礎理論についての講義を受けているエリス・アップルトンは、顔は教師のほうを向きながらその実、物思いにふけっていた。
 彼女は、この地方以外の場所を知らない。
 大洪水前には隣町にさえ行ったこともなかった。
 当時はそれについて何か思うこともなかったけれど、今は外の世界への関心は強くなる一方だ。
(属性からして、いずれは障壁維持の手伝いをするべきなのでしょう。でも……)
 興味の矛先は箱船計画に向いている。
 今この時も箱船は着々と完成に近づいているはずだ。
 以前エリスは、箱船計画について資料はないか図書室で調べたことがあった。
 しかし、箱船計画の「は」の字も出てこなかった。
 洪水後に伯爵をはじめ貴族達との話し合いで決まった計画なのだろうか?
 まったくわからない。
 エリスはこの時間中、義務感と興味の先のことを行ったり来たりして、授業に集中できなかった。
 同じ頃、別の教室でプティ・シナバーローズも悶々と考え事をしていた。
 ふとした時にこみ上げる後悔の念に囚われていたのだ。
 彼には七歳下の双子の弟がいた。プティも認める優秀な弟達だ。
 兄弟三人で魔法の勉強のためにここに来たのだが、大洪水に見舞われるという不測の事態が起こってしまった。
 プティは弟達を避難船に乗せた。
 その後のことはわからない。
(生きていてほしい。また会いたい。俺はこうして生きているんだから、あいつらだってきっとどこかで……)
 避難船に乗せたのは、本当に正しかったのか。
 手を離すべきではなかったのではないか?
 姿が見えない不安に心は苛まれた。
 暗闇に落ち込んでいこうとする心を、無理矢理鼓舞する。
(こんなこと考えたって、なんの解決にもなんねぇだろ! 何度繰り返せばわかるんだ!)
 プティは黒板を見据え、集中する。
 今は一生懸命勉強し、そしていつかそれを誰かのために役立てるのだ。
(扱える属性が水だったらよかったのに)
 そんな思いにも、今は蓋をした。

 午後は風属性の生徒達は実技授業のため校庭に集まっていた。
 今日は浮遊の基礎訓練なので落下した時の衝撃をやわらげるために、芝のあるところを使う。
 教師のハビの説明を聞いた後は、ひたすら実践だ。
 と、その時。
 ゴウッ、と鋭く風が回った。
 近くにいた生徒数人がこてんと転がされた。
「あ~……失敗しちゃった」
 風の中心で気まずそうに苦笑するバレンタイン・バレンタイン。
 宙に浮いてバランスをとっていたところを転がされてしまった一人のアリス・ディーダムは、怒るどころかクスクス笑って立ち上がった。
「すごい風でしたね。もしかしたら今日も……」
「ええ。不思議な渦を描いてますよ」
 アリスの言葉を引き継ぎ、頭上からイーリャ・ハインリッヒの明るい声が降って来る。
 バレンタインは頭を抱えた。
 彼女は良い素質を持っているのだが、生来のそそっかしさで魔法をよく暴走させていた。
 見かねた兄の助言で魔法学校の入学を決めたのだ。
 その兄とは、今は音信不通だ。
 あっ、と小さな声がして、浮遊が不安定になったイーリャが地に足を着いた。
「う~ん……まだまだ、ですね」
 イーリャは悔しそうに口元を歪める。
「浮くだけいいじゃない」
「いいえ、これではダメです」
 うらやましそうなバレンタインに、イーリャはピシャリと返す。
「イーリャさんは確か、他の町からここまで飛んできて助かったのでしたよね?」
 それにより一人だけ助かったため、アリスは気遣うように話しかけた。
 イーリャは目を伏せて頷く。
「疑うわけではありませんが、魔法でそんなに長く飛べるものでしょうか?」
 たとえば港町から他の町までは、一番近くても馬車でかなりの時間がかかる。海路を使ったほうが早い。
「ずっと飛んでいたのではなく……ここを目指して飛べるところまで飛んで着地して、それでまた飛んで……その繰り返しで来たのです」
 そういうことか、と聞いていた人達は納得した。
 それなら、道なりに来るよりもずっと早くにこの地に到着するだろう。
「それでも切羽詰まった状況で、よく失敗せずにできたと思うわ」
 バレンタインは感心したように言った。
 しかしイーリャは不満そうなままだ。
「イーリャは、その時以上に飛ぶ力をつけたいのですか?」
「ええ。そのためには練習あるのみ、ですね」
 アリスに答えたことで落ち着きを取り戻したイーリャの目に、決意がみなぎる。
 それはバレンタインにもアリスにも伝染した。
「心を静かに保って集中するんだ。風と呼吸を合わせることを意識して」
 ハビの言葉に三人は軽く目を閉ざして、風を感じようとする。
 閉ざされた世界になってからほとんど風は吹かなくなった。
 難しい課題だが、三人は懸命に励んだ。 

 

◆第三章 悩みは尽きないけれど
 マテオ・テーペの中心にある水の神殿から北西の方角に港町がある。
 その一角に集会所があった。
 今日は料理研究会があったため人が集まっていたが、別の一室ではレイナ・アトリュトネと四十前後の女性だけが静かに向き合っていた。
 公国騎士のレイナは社交的な性格で、大洪水後はよく精神的に不安定になった人々の話し相手をしてきた。
 今日もその時の一人が愚痴をこぼしに来ていたのだ。
 その女性は現状への不安はあるものの、落ち着きは取り戻していた。今、彼女の心を乱しているのは夫のことだ。
「最近は不満を言うばかりで、何もしようとしないんですよ。避難船に乗った子供達は生きているかどうかなんて、誰にもわからないじゃないですか。それを知るためにも、一刻も早く箱船ができるように造船所に手伝いに行ったらどうかと言うと、お前は子供達が心配じゃないのかって怒鳴るんです。心配に決まってるじゃないですか。私は、毎日あの子達の無事を祈ってますとも。でも、それだけじゃ……祈るだけじゃ足りないんです」
 吐き出すように話し続ける女性の話を、レイナは誠実な姿勢で聞いていた。
 この女性の夫は、なかなか立ち直れずにいる人の一人だ。
 先に立ち直った彼女は、いつまでも前に進めない夫をはがゆく思っているのだろう。
 けれど。
「ビセットさん、お気持ちはわかります。けれど、思い出してください。洪水後、もっとも辛い時にあなたを支えてくれたのは、旦那さんではありませんでしたか?」
 ビセット夫人はハッとした。
 レイナは微笑んで小さく頷く。
「旦那さんもわかっていると思います。人の歩みはそれぞれです。もう少し待ってみませんか」
 仕方がない、とビセット夫人は肩を落とし苦笑した。
 二人の話が終わるのを待っていたかのように、岩神あづまが試食のお誘いに来た。
 もちろん二人は喜んで参加した。
 試食会の部屋には、食欲をそそる香りが満ちていた。
 最近では調味料や香辛料も減る一方で、各家の食事の内容も節約を心掛けたものになっている。
「これは……カレーの香りでしょうか。それからスープの良い香りもします」
「正解ですよ、レイナさん」
 たおやかな微笑みであづまは、レイナとビセット夫人に席を勧めた。
 彼女は港町で『真砂』という居酒屋兼飯処を営んでいる。彼女は外国出身で、いつも故郷の衣服姿でいた。
「ジャガイモは、それなりに生産量があるでしょう。それを使ってカレー風味のフレンチフライにしてみたんです。香りづけなのでカレー粉も少量ですみますからね」
 あづまの試食品の紹介にレイナは納得した。
 環境の変化は畑に大きな影響をもたらしていた。
 外界と絶たれたことにより、まず川がその循環を失い枯れた。
 川の水は川床の低い箇所に溜まるだけだ。
 その溜まり場は数か所あり、そこには水を霧状にして拡散させる魔法具が設置されている。これにより、障壁内の湿度は保たれている。
 日常の水は、水の魔術師が確保していた。
 水を多く必要とする作物は育てるのが難しくなっていった。
 もう一品は、ルイザム・デプレンドの鶏ガラスープを使った煮込み料理だ。
 野菜の固い部分も薄く切って入れたため、捨てた部分はほとんどない。
 具材は大きく切っているため、見た目にボリューム感がある。食べごたえもありそうだ。
 しかし、それよりも。
「ルイザムさん、お料理できたんですね……」
「あたしも、ちょっと意外でした……ふふっ」
 レイナとあづまが微笑み合う。
 町中で見かけるルイザムは、ちょっと近寄りがたい雰囲気だ。
 口数も少なく、たまに開いてもぶっきら棒な言い方だったりする。
 何を考えているのか、いまいちよくわからない人物であった。
「今日は良い縁を持てました。ルイザムさんがどういうお人かも、何となくわかりましたし」
 豪快な煮込み料理に口をつけ、あづまは言った。
 料理には人柄も出る。
 丁寧にダシをとっているスープに、あづまは几帳面さを感じた。凝り性とでも言おうか。
 ルイザムが今日の研究会に参加したのも、最近の食糧事情の悪化を気にしてのことだった。
 それから話題は、昨日行われた会議に移った。
 出席者は港町のまとめ役のリルダ・サラインと、町の主だった人達だ。
 議題はやはり作物や家畜の生育が主だった。
 地属性の魔術師ががんばってくれているが、収穫量の減少は抑えきれていない。家畜にしても同様で、飼料の栄養不足や自然の太陽光ではないことによる何らかの悪影響などにより、出産数が減っていた。
 そのことは人間にも無関係ではない。
 不安からか、治安も悪化した。
 避難時に空き家になった家に空き巣が入るようになったのだ。
 空き家については、早いうちからリルダは港町の人達や元々ここの担当だった騎士団員のバート・カスタルに相談して、定期的に見回りや掃除を行っていた。
 しかし、掃除に入った家が荒らされていた、などの報告は後を絶たない。
 そこで少しでも改善しようと、洪水時この地を訪れていたために帰るところを失くした外国人に居住を持ちかけた。
 もちろん、面接や詳細な話し合いの末に居住者は選ばれる。
 けれど以前の住人の物がそっくり残っている家には住みにくいようで、希望者はあまり集まらなかった。
 田舎町のため、宿屋も限られている。
 仕方ないので、使われていない倉庫を長屋に改造することになったのだった。
 新築も建てられたが、それはごく一部の貴族のみだ。
 また、税の高さも問題だった。
 今の税率は五割。
 そのほとんどが箱船計画に費やされているが、浪費している貴族もいるとかいないとか。
 貴族の人数は全体の一割にも満たない。
 それなのに、残された半分の収穫で大半の住民を生かさなくてはならないのだ。
 それでも生き残った人々の未来を託す箱船のためなら、と我慢もできたが、現在水の神殿で障壁の維持の要になっているかつて隣国だったウォテュラ王国のルース姫が関わってくると、とたんに出席者達は渋面になったという。
 ルース姫の評判は悪い。
 伯爵の館と水の神殿の往復には、大げさなほどに王国からの近衛兵を連れて歩き、町の人とはいっさい口をきかない。
 挨拶をしても見向きもしないのだ。
 造船所にも顔を出すそうだが、来たら来たで注文の嵐だとか。
「リルダさんは、姫については何もおっしゃっていないそうですが……」
 あづまは、苦笑した。
 たぶん好いていない、と周りの人は言っていた。

 昼食時になると、港町は少し活気を取り戻す。
 働きに出ていた人達がお腹を満たしに集まってくるからだ。

イラスト:沙倉
イラスト:沙倉

 そんな人達のために、ピア・グレイアムはパンを焼いていた。最近では惣菜や弁当も売っている。
 開け放した店のドアから、焼きたてパンの良い香りが店先に漂った。
「コロッケパン、できたてですよー!」
 棚に並べながら通りに呼びかけると、
「コロッケパン、くださいな~」
 そより、と風がそよぎトゥーニャ・ルムナが現れた。
「いらっしゃい。良かったら他のも見ていってくださいね」
「おじゃましまぁす!」
 トゥーニャは元気な声をあげて店に入る。
 彼女はもう立派に成人しているが、見た目が幼いのと変わり者と言われる性格のため、もっと年下に見られることが多い。
 けれど、ピアにとっては大切なお客の一人だ。
「えっと……これと、これと」
 お盆に載せていく様子を微笑ましく見守った。
 続いて匂いにつられてシャオ・ジーランが来店した。
「いい香りはここからですね」
 人好きのする笑顔を、ピアも笑顔で迎える。
「いらっしゃい。お惣菜もありますよ!」
「これはおいしそうです。うん……お昼時にこのお店の前を歩く時は要注意ですね。つい買いすぎてしまいますから」
「ふふふっ。夜の分まで買っていってもいいんですよ」
「迷いますねぇ」
「それとも、久しぶりにバイトしていきます?」
 定職を持たないシャオは、時々ふらりとやって来てはその日の食い扶持を稼ぐためにピアのパン屋で働いたりする。
「よし、決まった! これちょーだい!」
 レジにトゥーニャが立った。
「ありがとうございます」
 会計を済ませている間に、一人また一人と客が訪れてきていた。

 客の往来が落ち着きを見せた頃、リエル・オルトが看板娘を務めているカフェ兼酒場はいったん店を閉めた。
 食材不足により、一日中開けていることが難しい日がある。
 今日はそんな日だった。
 時間ができたリエルは自宅も兼ねている店の裏庭に出て、ハーブの様子を見ていた。
「一応、育ってるね……。何とか種が取れるといいな」
 海底に閉じ込められてから季節がなくなった影響か、多年草のいくつかが一年で終わってしまっていた。
 環境に強いハーブは何とか生き残っている。
「風、ほとんど吹かないもんね……受粉してないのかなぁ」
 あれこれ考えながらハーブを眺めていると、聞き覚えのある声に呼ばれた。
 振り向くと、公国騎士のアディーレ・ペンペロンが庭先で手を振っていた。
 彼女は伯爵と共にこの町に来た騎士団員だが、人懐っこい性格により港町の人とはすぐに打ち解けていた。
「今日はもう閉めてたんだね。それでこっちに来たんだけど、今いいかな?」
「アディ、今日もご苦労様。何か食べない? 私、お昼まだなの」
「嬉しいけど、大丈夫? 夜にまたお店開くんでしょ」
「アディの分くらいどうってことないわよ」
「それなら、ありがたくいただきます」
 勝手口から店に入ると、リエルは手際よくパスタ料理を二人分用意した。
 食事中の話題は最近の港町のことだった。
「みんなイライラしてるの。それですぐ喧嘩になっちゃうのよ」
「お店でも愚痴を多く聞くわ。もちろん前も愚痴はあったけど、何か違うの。刺々しいっていうか……。一部の人は例のお姫様とか伯爵様とか……貴族にすごく敵対心を持ってるみたいだし」
「自分の中の不安をうまく処理できないんでしょうね」
 二人はやるせないため息を吐く。
「少しでもリルダの助けになりたいわね。暴動にならないように、よく見ておかなくちゃ。リエルも夜は特に気を付けてね。何かあったら呼んで。遠慮しちゃダメよ」
「ありがとう。気を付けておくね」
 その後はできるだけ明るい話をして、アディーレとリエルは別れた。

 少し時間は戻ってお昼時。
 ベルモット・ビネガーは片手で大鍋を乗せた台車を慎重に押し、もう片手にも大きなバスケットを提げて造船所を訪れていた。
 ここには元船乗りの彼女の顔を知る者ばかりだ。
「おーい、差し入れ持ってきたぞー!」
 思わぬ客に昼休憩中だった労働者達から歓声があがった。
「今日は集会所で料理研究の集まりがあったんだ。それで、腹いっぱいになれて栄養もあるものをと思ってさ……」
 じゃーん! と、鍋の蓋を開けるベルモット。
 ふわっと、香ばしい香りが沸き立ち、集まっていた労働者達がどよめく。
「ずっと東のほうが発祥のミソってやつを使ったミソシルって料理だ。具には腹持ちの良いサツマイモに、栄養たっぷりの根菜類を入れたんだ。それと、こっちのバスケットにはイモコロッケとイモご飯が詰めてある。これで午後の仕事もバッチリだろ」
「おおっ、ミソって知ってるぜ! これだけでもすんげぇ栄養があるんだよな!」
「最近は米も減って来たからなぁ」
 ベルモットは曖昧な表情になった。
 主に暖かい地方で育つ米は、今の気温ではあまり育たない。
 そのため、ミソに必要な麹が減る。
 ベルモットが貯蔵しているミソも、残念ながら増えることはないだろう。
 そして畑仕事をしている彼女は、それを見越して保存食も蓄えていた。
「それで、箱船はどんな具合なんだ?」
「順調だぜ。ただなぁ……」
 答えた労働者は、不満げにきゅっと眉を寄せた。
「あのお姫さんが来ると、ちょーっとな」
「上から目線の注文し放題ってな。簡単に何でも変更できると思っているのかねぇ」
「ま、お貴族様なんてあんなもんだろ」
「いつも俺達を気にかけてくれる伯爵様とは大違いだ」
 一人がこぼすと、次から次へとルース姫への不満が発せられた。
 ベルモットは相槌を打ちながら、彼らの愚痴を聞いていた。

◆第四章 希望の船
 造船所の労働者達のルース姫に対する不平不満は、当然所長のフレン・ソリアーノも知っている。
 ルース姫はずっと年上の彼に対しても遠慮しなかった。
 しかしフレンがそのことについて不満を言ったことはない。
 相手が姫だからというのではなく、単に気にしていないだけなのだ。
 フレンからすれば、孫が一生懸命に知恵を絞っている微笑ましい姿、ということだった。
「船ができたら姫さんは海上調査の旅に出るんだ。何が起こるかわかんねぇ旅だ。今まで何不自由なく暮らしてきただろうによ。それを思うと、あんなわがままくらいかわいいもんじゃねえか」
 そう言って、フレンは笑っていた。
 嬉しい差し入れも追加された昼食が終わると、また作業再開だ。
 午後になって、マジェリア・カンナイはふらりと造船所に足を運んだ。
 午前中は貴族とのおしゃべりに付き合わされ、退屈でもあり息が詰まるような時間でもあった。
 彼らといえば、ただ現状を嘆くばかりなのだ。
 そんな陰鬱な空気とは反対に、ここは労働者達の声が飛び交いすがすがしい空気に満ちていた。
「さて、何か仕事はあるかな……」
 まずは所長のフレンに挨拶をするべきでしょうか、と考えながら歩いていた時。
「そこ、ちょっとどいてくれ! 資材が通るぜ!」
 後ろから威勢の良い声がかかった。
 振り向くと、重そうな木材を担いだ長身で体格の良い男が大股に歩いて来る。
 マジェリアは慌てて端に寄った。
 通り過ぎた大男の後ろを、さらにもう一人木材を担いだ男が続く。こちらも長身でよく日に焼けた肌の色をしていた。
 その男は通り過ぎる寸前にふと立ち止まり、長い前髪の隙間からマジェリアを見下ろして言った。
「こんなとこでウロチョロしてると仕事の邪魔だ。向こう行ってろ」
 と、門の外を仕草で示し、足早に行ってしまった。
 つっけんどんに言われてマジェリアは少しへこんだが、ここから出ていこうとは思っていなかった。
 考えに考えて、自分にできることは掃除だと思った。
 見渡すと、木屑など様々なゴミが散らばっている。
 手始めに風を操ってそれらを一か所にまとめてみた。
 木材を指定の場所に下ろしたウィリアムの視界の隅に、先ほどすれ違った身なりの良い女の姿が映った。
「掃除してんのか……?」
「おお、ウィリアム。運んでくれたのか。ありがとな」
 ぼーっと見ていると、年配の男に呼びかけられた。
 元々この木材は彼が運ぶ予定のものだった。それをウィリアムが代わったのだ。
「どれ、始めるとするかね」
 これからこの木材を加工して船のパーツにしていく。
 この年配の男は一度引退した船大工なのだが、フレンに呼ばれてもう一度その腕を振るいに来たのだ。
 ウィリアムが材木運びを代わったのは、万が一を起こして男が仕事ができなくなるのを心配してのことだった。
「ほれ、突っ立ったねぇでちゃんと見とけ。後でお前さんにもやってもらうんだからな」
 ウィリアムは表情を引き締めて男の手に注目した。
 マジェリアが集めたゴミは、数か所に分けて集められていた。
「そういえば、どこに捨てたらいいんでしょうか……」
 キョロキョロしていると、横からひょいと大きな袋が差し出された。
「これ使うといいよ」
「あっ、ありがとうございます」
「君、さっきウィリアムに注意されてた人だよね」
「はい……」
「あ、ごめん。落ち込ませるつもりじゃないんだ」
 彼はリューク・クラインと名乗った。外国人とのことだ。
「あいつ愛想ないけど、君が怪我しちゃいけないと思っての注意だったと思うんだ」
「そうだったんですか……。リュークさんはずっとここで?」
「まぁね。俺にとって箱船は、また外の世界を見て回れる唯一の手段だからね。この国に来たのだって、その旅の途中だったんだよ」
 話をしながらも手を動かしていたため、袋はすぐにいっぱいになった。
「ゴミ溜め場まで案内するよ~」
 リュークはゴミの集積所へと歩き出した。

 エイディン・バルドバルは教えられたとおりにカンナで材木を削っていた。
 見上げるほどの背丈と筋骨隆々とした体格に、はじめのうちこそいつか問題を起こすのではと警戒されていたが、二年も共に仕事をしていれば人柄もわかってくる。
 黙々と真面目に働く姿は、しだいに警戒心を解かせていった。
 相変わらず口数は少ないが、今では頼れる仲間だ。
 彼は時折リックを気にして作業の手を止めていた。
 今日は何のドジもしていないし、転んでもいないようだ。
 一生懸命だけど不器用な弟を見守るような心境だった。
 昨日、転んで桶の水をぶちまけていたのを思い出し、ホッとする。
 と、そこに赤ひげと名乗る変わった男の大声が響いた。
「リュネー! ご要望の人材を連れてきたぜぇ! どいつも使える奴ばっかりだぞ!」
 彼は大洪水の時に名前も記憶も失くしてしまったため、特徴である伸びっぱなしの赤ひげを自身の呼び名にしたのだ。
 あまり身なりにかまわないせいか、どうにも胡散臭く見える男であるが、妙な愛嬌があり造船所の人達に受け入れられていた。
 そんな彼を迎えたのは、まるで正反対のきちんとした身なりのリュネ・モルである。
 彼は事務方の一人としてここで働いている。
 そして先日、赤ひげに働く意欲のある人を集めてほしいと頼んだのだ。
「ああ、おかえりなさい。これはまた、良い人達を連れてきてくださいましたね。ありがとうございます」
「一番欲しかったのは、木の切り出しだろ。体力ある奴ばっかりだ。後、手先の器用な奴もいる。適材適所で頼むぜ」
「ええ、お任せください」
 リュネは請け負い、赤ひげが連れてきた人達を書類作りのために事務所へ案内した。
 造船所の様子を珍しそうに見回している新入り達に、リュネは話しかけた。
「赤ひげさんとはどこでお知り合いに?」
「酒場だよ」
 リュネのすぐ後ろにいる男が答えた。
「仲間とそこで飲んでたらさ、いきなりやって来て箱船作ろうぜ、てな。あのナリだろ。新手の詐欺師かと思ったぜ」
 赤ひげには悪いと思いながらも、リュネもつい頷いてしまった。
「あのオッサン、勝手に俺の酒飲みながら言うんだよ。箱船が希望なんじゃねえ、海の向こうにあるのが希望だってさ。正直、うまくいく保証もねぇ箱船計画には懐疑的だったんだけど、オッサンの言葉聞いて、海の向こうを目指すのも悪くねぇと思ってね。保証の問題じゃねぇんだと考え直したんだ」
 聞きながら、赤ひげの言葉に乗せられた人がここにも一人、とリュネは内心で苦笑した。
 リュネが新入り達に必要書類に記入をしてもらっている頃、造船所に二人の医師が巡回に来ていた。
 ノア・ラメールとミリュウである。
 途中で会って共にここに来たのだ。
 造船所では怪我をする人が出ることがある。そして彼らはたいてい「ほっとけば治る」と言って、手当てをしないのだ。
 医術の心得があるノアからすれば、どんな小さな怪我でも、放置するのは危ないことだった。
 今日も目ざとくかすり傷を隠した者を見つけた。
「化膿したら苦しむのはあなたなのですよ。どうか、ご自分を労わることを忘れないでくださいね」
 手当ては面倒がるのに、知的な美しさを持つノアと接するのは悪くない──そんな輩は少なくない。
 たった今手当てをしたこの男もそんな一人だった。
「自分を労わるってんなら……あんたが酒の相手でもしてくれよ。それだけでどんな怪我も……」
「ミリュウさん、この方を診ていただけますか?」
「む、いいだろう。どこが悪いんだ?」
 ノアの呼びかけに応じたミリュウは、一見すると武闘家にしか見えない。実際、天翔朱雀流という、炎を操る流派の武道を極めたと本人は言っている。
「たぶんですが、頭が凝っているんだと思います。朝早くから熱心にお仕事をされていますから」
「なるほど。一心不乱に仕事に打ち込めば、頭も疲れるだろう。我が『三流(みつながれ)式施術』ですっきりさせてみせよう」
「いや、俺は……」
 引け腰になった男の腕を掴み、ミリュウは施術できる場所へと引きずっていった。
 呆然と見送る仲間の労働者達に、ノアは落ち着いて説明した。
「大丈夫ですよ。あんな感じですけど、怪我人への対処はちゃんとしてますから」
 医術を使う者として、二人は互いの存在を知っていた。
 ミリュウの治療受けた男だが、治療中は変な声をあげていたが、終わってみれば体が軽くなったと喜んでいたとか。
 それでも、何故か恐れられてしまうミリュウだった。

◆第五章 水の神殿
 人工太陽が傾き始めた頃。
 水の神殿のエントランスの向こう、奥の間から疲れた顔をした水の魔術師が数人ふらふらと出てきた。
 休憩である。
 その頃合いを見て待っていたヴァネッサ・バーネットが、労いの声をかけた。
「ご苦労さん」
「ああ、今日は君か。君達こそ、いつもありがとな」
 ノアやミリュウも、ここに様子を見に来ることがある。
「私達にもっと力があれば、障壁もちゃんと維持できるんだけどね……」
 壁に背を預け、膝から力が抜けたように座り込む彼ら。
 障壁が少しずつ狭くなっていることは、誰もが知るところだ。
 ただ、今のところ本当にわずかずつなので、注意して見ていないとわからないだろう。
 一番顔色の悪い魔術師の手を取り、診察を始めるヴァネッサ。
 魔力の流れを読み取り、弱くなっているそれに力を注いでいく。
 その時、同じ年頃と思われる男女が顔を覗かせた。
 魔法学校の授業を終えたリディア・ノースとロビン・ブルースターだ。
 ぐったりしている魔術師達の姿に、リディアは心配そうな顔をした。
「あの、何か飲みますか? お水とか……」
「それもいいけど……音楽を聞かせてよ。フルートと歌で」
 地属性のヴァネッサによる魔法で幾分元気になった魔術師が、二人の学生にリクエストした。
 リディアとロビンは頷きあうと、魔術師達の前に立った。
 ロビンは父親に買ってもらったフルートを鞄から取り出すと、軽く吹いて具合を確かめる。
 このフルートをくれた父は、もういない。大切な思い出の楽器だ。
 ロビンはリディアの準備が整うのを見ると、フルートに息を吹き込んだ。
 ゆったりとしたやさしいメロディに、魔術師達は心を委ねる。
 そこにリディアの声が加わった。
 曲は、公国の人なら誰でも知っている童謡だ。懐かしい気持ちにさせる。
 しばらく、ただ穏やかな時が流れた。
 一曲終えると、魔術師達から拍手が起こった。
「ありがとう、元気が出たよ」
「音楽って不思議だね。こんなふうに心を慰めてくれるんだから」
「いつか、音楽以外でも役に立ちたいです」
 ロビンの気持ちはリディアも同じだ。
「ロビンが奥の間に行くようになったら、いつもフルートの音が聞けるねぇ」
 うらやましい、と明るく言うヴァネッサ。
 ロビンは魔法を使う際、集中するためにフルートを奏でるからだ。
「お耳汚しにならなければいいんですけど」
「子供がそんな謙遜するんじゃないよ。堂々としてな」
「……じゃあ、もっといろいろ吹けるようにしようかな」
「そう、それでいいんだ。いろんな曲を聞かせてやるくらいの気持ちでいなよ」
 ヴァネッサの励ましに、ロビンは微笑んだ。
「わたしも、お役に立てるようにがんばります!」
 もっと魔法の練習に力を入れるべきかと、あれこれ考えるリディア。
 頼もしい学生達を、魔術師達はやさしく見守っていた。

 少し遅れてクレーネ・ネロが水の神殿の門前に来ていた。
「い、いきなりは良ぐねぇよな……やっぱ、挨拶は大事だべ……でも、声かけるのは迷惑かもしんねぇ……覗くだけならいいかな?」
 決心がつかず、うろうろおろおろしていると、ちょうど神殿を一巡りしてきたラトヴィッジ・オールウィンに見つかった。
 挙動不審なクレーネに、ラトヴィッジは少し硬い声音で声をかけた。
「何をしている?」
「わあっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ。怪しいモンじゃねぇです! ただちょっと、ご挨拶に……」
 ものすごい勢いで謝られ、逆にラトヴィッジが目を丸くしてしまう。
 そこに別の、どこか能天気な声がした。
「なぁ、ここにお姫様がいるって聞いたんだけど」
 人の良さそうな笑顔をしたアズマ・キナサだった。
 町では変わり者と思われている。
「ルース姫なら、まだ奥にこもってるよ。もうしばらく出てこないんじゃないかな」
 ラトヴィッジの返事に、アズマは目に見えてがっかりした顔をした。
「もうしばらくって、いったいいつからこもってんだよ」
「朝から来て……昼の休憩後からずっとだよ」
「魔法って、そんなに長い使えるもんなの? もし俺が朝からそんな調子で動きっぱなしだったら、ちょーっと疲れちゃうなぁ」
「ふつうは無理だな。姫はずい分と優秀な魔術師なんだそうだ」
「ふぅん」
 あの、と遠慮がちにクレーネが声を出す。
「水の魔術師って、他にも仕事があるんだよな? 甕に水溜めてんの、見たことあるし……」
 水の魔術師の主な仕事は、障壁の維持と生活に必要な水の確保、それから障壁を張ったことで循環が失われた川の管理がある。
「休む暇もねぇな……」
 クレーネは心配そうに奥の間のほうを見やった。
「そう簡単にはくたばらないよ。……と、魔術師は言ってたよ」
 その言葉を鵜呑みにはしていないけれど、ラトヴィッジはそう言っておいた。

 神殿前で、小柄で華奢な少女が立ち止まっていた。その少女、イリス・リーネルトは得意である水の魔法を役立てればと水の神殿へ手伝いに訪れているのだった。
 しかしその視線は、神殿ではなく、少し外れたより上の方に注がれている。その先にあるのは巨岩、マテオ・テーペだった。彼女はなぜかマテオ・テーペのことが好きで、毎日こうして眺めるのが楽しみになっているのであった。
「マテオ・テーペを見ているのかな?」
 そこへ軽い調子で声を掛けたのは、メリッサ・ガードナーだった。そのまま近づいて隣で肩を並べるようにしつつ同じ方向を見上げる。どちらも美女と言えるのだが、かたや華奢で小柄、かたや健康的な日焼けした肌とグラマラスな体型、と並ぶとかなり好対照な二人だった。
「こんなに近くにあるのに、立入禁止なんてね」
 メリッサがイリスの気持ちを察したかのように話す。それは、イリスも感じていたことだった。
「できれば、もっと近くに行ってみたいですね」
 イリスはそう返す。明るく朗らかなメリッサの雰囲気も手伝って、旧知の仲のように二人はマテオ・テーペについて語り合った。メリッサは近づくだけでなく、登ってみるためにこの地に来たらしい。
「すいません、そこのお二人、少々よろしいでしょうか?」
 雑談に花が咲き始めていた二人に、さらに声が掛かる。
 マテオ・テーペを見上げていた二人が振り返ると、そこには白髪交じりの髪を束ねた男がいた。
「あの巨石を見てらっしゃるようですが、高さはご存知ですか?」
 彼――クラムジー・カープは、自分の名を名乗りつつそう聞いた。二人がなぜそんなことを、と返すと、クラムジーは箱船計画成功の為に研究や観測をしている者だと答え、現在のこの場所がどれほどの水深にあるかを調べようとしていると話した。それを元に、洪水後も残っている可能性がある陸地などを絞り込めないかと考えているようだった。
「ここからじゃ分からないね……あれに登ることができれば、天井部分に何か見えるかもしれないけど」
 メリッサがそう答えると、イリスも、水の魔術師たちの負担は相当凄まじいものだから、かなりの深さなのではないか、と自分の意見を遠慮がちに述べる。
 確かに、クラムジー自身が調べた限りでも水の障壁外に生物の姿などは見えなかった。それは、魚もほとんどいないほどの水深である、ということかもしれない。
 そうであるならば、残っている大地などあるのだろうか。そう思ってしまう。

◆第六章 魔術師の卵達2
 放課後、ランシア・アクリアは図書室で自習をしていた。
 向かい側ではアリス・レッドキャップ=セカンドカラーも宿題に取り組んでいる。
 水属性の生徒達の中には、卒業したら水の神殿で障壁の維持に携わるつもりでいる者が多い。
 ランシアもその一人だ。
 いずれ来るその時のために、少しでも障壁のことを知りたかった。
 書物によれば、水でできた膜とのことだが、ここの障壁がどのように生成され維持されているのかは書かれていなかった。
(先生も神殿の奥の間がどうなっているのかはわからないって言ってたしね……)
 けれど、命を失うほどの魔法なのだから、生半可な気持ちで行ってもすぐに使い物にならなくなるのは想像できた。
(もっと……もっと力をつけなくちゃ。知識も魔法を操る力も)
 ランシアは気を引き締めて読書に集中した。
 ところで、ランシアの向かいに座っているアリスだが。
 いかにも勉強している姿勢だが、頭の中はワンダーランドに飛んでいた。
 時々、含み笑いなどがもれてしまう。
 ある一方において、彼女の想像力は異常な力を発揮する。
 そしてその時間は至福であった。
 と、そこにノイマン・ヘントが顔を出した。
 こんにちは、との声にランシアとアリスが顔をあげる。
「こんにちは、先生」
「ハロロース」
「ここでは先生じゃないよ、ランシア。みんなと同じ一生徒だ」
 ノイマンは公国から少し離れた国の考古学者だ。そのため、一部の生徒からは先生と呼ばれることがあった。しかし彼自身は、ここに魔法を学びに入学したので、周りと同じただの生徒だと思っている。
「じゃあ、ノイマン。あなたも勉強しに?」
「そうだね……勉強と言えば勉強かな」
「どういう意味?」
「一緒に探検に行ってくれる人はいないかなって」
 ランシアとアリスはそろって首を傾げた。
 この学校は、学生寮や旧天文塔を含めてもそんなに広いわけではない。一日もあれば回ることができるだろう。
「森だよ。なかなか興味深いと思わない? あそこ、けっこういろんな植物があるんだけど、知ってた?」
「いいえ。そういえば、動物も生き残ってるのよね……」
 港町にも猫や犬がいる。
 生き残ったのは人間だけではないと改めて認識した時、やけに明るい声が響いた。
「ノイマンく~ん、今日のノート見せてくれないかなー?」
 そう言って、親し気にノイマンの肩を組んだのはロスティン・マイカンだった。
「ちょーっと書ききれなかったとこがあってさぁ。ダチには貸してくれるよなー」
「いいよ。近いうちに小テストやるって言ってたからね。君も熱心だね」
「……ん? ま、まぁね」
 小テストのことを初めて聞いた気がするロスティンだったが、ノイマンが嘘をつくとも思えず頷いておいた。
 そんな二人をぼんやり眺めていたアリスが、不意に口を開いた。
「う~ん、いまいち」
 一瞬ロスティンはごまかしたはずの動揺を見透かされたのかと思った。演技力が足りん、と。
 思わずじっと見つめていると、アリスは意味深に笑う。
 実際のところ、ロスティンの焦りはただの勘違いで、アリスは全然違うことを考えていたのだ。
 意味深な笑みに見えたのも、ロスティンの動揺がそう見せただけだった。
 アリスは、この席に座った時から頭の中で展開されている想像世界について、いまいちと口にしてしまったのであり、意味深に見えた笑みはロスティンに見られていたことに対する一種のごまかし笑いであった。
 ところで、この図書室は校庭に面している。
 その端の方の木陰で、ヴォルク・ガムザトハノフは魔法の研究をしていた。
 今日の授業で、音は空気の振動による現象である、といった内容の話を聞いたヴォルクは、ふと思いついたのだ。
 ──それなら、空気の振動が伝わらなければ音は聞こえないのでは?
 そのためにはどうしたらいいのか。
「俺自身をさらに空気で囲えばいい!」
 何だかものすごい名案に思えた。
 音を発生させている空気を、さらに別の空気で覆う。
 風属性の自分にしかできない魔法だ、とヴォルクの胸は高鳴った。
 そうして魔法を完成させるため試行錯誤している姿を、セレイナ・アシュナータが見かけた。
 外国の遊牧民だったセレイナは、知識と文化を学びにここを訪れた際に大洪水にあい、生き残った。
 しかし、仕方ないとはいえ障壁に閉じ込められたこの世界は、どこまでも続く草原と砂漠と空に親しんできた彼には、とても窮屈だった。
 それで今日も授業をさぼって、学校を囲む森の探検をしていたのだ。
 そして森から出てきたところでヴォルクを見かけた。
「何だろう……儀式?」
 ヴォルクの魔法研究に臨む姿は、まるで何かの儀式に見えなくもなかった。
「君、何をしているの?」
「……」
 よほど集中しているのか、ヴォルクは気づかない。
 セレイナはヴォルクの正面に回り込んでみた。
「うわぁ! な、何者っ……ああ、あんたか」
「何してるの?」
「新魔法『スターリンの青』の研究さ」
 ヴォルクはその魔法について話して聞かせた。
「ううん……?」
 セレイナは首を傾げるが、ヴォルクはそんな反応を特に気に留めず、再び風を操り始める。
「よくわからなけど……もしそれが成功したとしても、姿は丸見えなんじゃ……」
「動くのは夜だから問題ない」
「でも、地面には音は伝わると思うし、君自身にも周りの音が聞こえなくなって、危ないんじゃないかな」
 ヴォルクは盲点を突かれたような顔でセレイナを見つめた。
 本当はもっと根本的な問題があるのだが、二人はそこまでは気づいていなかった。

◆第七章 農園の現状~少しでも元気になれ
 今日も人工太陽が辺りを照らしている。天気が安定しているのは良い点だけれど、やはり大地に恵みを与えるものとしてはかなり物足りない。しかし、それでも水の魔術師たちは頑張っているのだから、もちろん責めるわけにもいかない。
 そんな中、アスナ・ドライブは港町の近くにある果樹園で、ため息をつきながら収穫作業を続けていた。収穫できそうな実をもぎ取っては、背負ったカゴに入れていく。その量は昔と比べれば比較できないほど少ない。
「こんな状況だから、食べ物の確保は大事だけど……まぁ、植物だからすぐに実を付けるってこともないし……」
 どうしてもそんな愚痴が口をついてしまう。
 ここは、文字通り水に囲まれた閉鎖世界、マテオ・テーペ。突如世界を襲った大洪水から、水魔法で張った障壁によってかろうじて生き残っている世界。明かりは毎日火の魔術師が打ち上げる人工太陽で、明るさは十分なものの、熱量が足りないのか植物の成長は全般的に遅くなっていた。
「収穫、ルルもお手伝いいたしましょうかー?」
 果樹園を歩き回っていると、アスナに向かってそんな声が飛んできた。見れば、3人ほどの人影がこちらに向かってきている。声を掛けてきたのは、そのうちの一人だった。果樹園の娘として生まれたアスナが、同じ農家に生まれてきた者同士ということで顔くらいは知っている仲の少女、ルルノイ・テティだった。
「こんな時だからこそ、助け合いをしないと、って話していたんです」
 そのまま近づいてきたルルノイはそう続ける。アスナは首を振りつつ、手伝うほど作業量が無いと呟くように返答した。
「確かに、状況は良くないようですね。それは私の育てているものも同じですが」
 隣にいた栗毛のロングヘアをぞんざいに束ねた男が言う。彼はイヴェット・クロフォードと名乗って言葉を続けた。曰く、研究のために訪れて洪水に巻き込まれ、今は家を借りて近くで農業をしているのだが、やはりあまり育ちは良くないらしい。何か気づいたことが無いか情報交換がしたくて農地を歩いていたところ、ルルノイと偶然会ったらしい。
「とは言っても、ルルの頭では良い考えは思いつかないのですけど……どうしたらいいんでしょうか」
 誰もが何とかしたい、そうは思いつつも解決策が見当たらない、そんな状況のようだった。
「とにかく、思いつかないならこうしていても仕方ない。あたしもできる限り手伝うから、作業をいっしょにしようじゃないか。何か気づくこともあるかもしれないし。それで収穫物を分け合うとかね。本当は給金が欲しいとこだけどそれどころじゃなさそうだしね!」
 残りの一人、一際存在感のある恰幅の良い女性が大声で話す。彼女、リーリア・ラステインはひ弱な旦那を食べさせるためにも、手伝える作業などないか探していてルルノイたちと出会い、合流したのだった。
 その後も4人は、お互いの作物の状況や今後の対策について相談しながら収穫を手伝いあった。しかし、今後の対策についてはなかなか良い案は出ないのであった。

 一方、そこから少し離れた同じく農場エリアの一角。
 そこでは、傷の手当てや病気の際に使う薬草が育てられていた。しかし生育状況はあまりよろしくない。というか、他の作物に比べてもさらに状況が悪いようだった。
「当然か……結界の維持やその他諸々、みんな食うのに精いっぱいだ。こういうのにかまけている余裕なんざねえだろうからな……」
 やせ細った薬草たちを調べながら歩き回っているのは、リベル・オウスだった。彼は現在、港町で薬を作っては売っていた。薬草の生育が悪いとなれば大問題である。
 とりあえず、調査検証のために土と薬草の一部を持ち帰ることにする。チマチマした事は本来リベルの性分ではないのだが、生活がかかっている。仕方がない話だった。

 アウロラ・メルクリアスは朝早くから畑仕事に精を出していたが、それもそろそろ終わりを迎える時間になってきた。
 大洪水の時、足を失い義足になったが持ち前の芯の強さと明るさで日々、土と向き合って生きている。
 港町の住民が大勢避難船に乗って出て行ったため、持ち主のいなくなった田畑は多い。
 リルダは責任を持って管理できる人に田畑を任せていたが、それでも荒れていく土地はあった。
「……みんな、元気に育ってね」
 まだ小さいキャベツにエールを送り、土にも力がつくように魔法をかける。
 これも一日中すべての畑にできるわけではないので、範囲を決めて毎日地道にやっていた。
「さて、次は……」
「アウロラさーん!」
 立ち上がり、ぐっと背筋を伸ばした時、名前を呼ばれた。
 声をほうを向くと、あぜ道にトモシ・ファーロが立っていた。
「手伝うことある? 水は足りてる?」
「うん、大丈夫。後は隣の畑の雑草を抜いて、今日は終わりかな」
「じゃあ一緒にやろう。そのほうが早く終わるし」
 二人はさっそく隣の畑に移る。
 雑草を抜きながら、アウロラはこんなところでトモシと会うのは珍しいと言った。
「占いで東が良いと出たんだ。だから、今日はずっと東側を回っていたんだよ」
「じゃあ、ずっとみんなの手伝いを?」
「水を溜めたり、雑用を手伝ったりね」
「お疲れ様、だね」
「なんの。俺より疲れている人はもっといるよ」
「ここ、雑草少ないみたいだし、早くに終わりそうだから、もう一か所いいかな?」
「もちろん」
 雑草が少なめなのもそうだが、トモシが言ったとおり二人での作業は早かった。
 この面はジャガイモを育てている。
 少しでも大きく育つよう、間隔をあけてジャガイモの葉が並んでいる。
 キャベツ畑と合わせてアウロラの畑ではないが、持ち主の体調が悪いため代わりに面倒を見ていたのだ。
 しばらくして二人はあぜ道を歩き、他に手入れのいる畑はないか探していた。
 ふと、あぜ道を下りたところで畑に向かってゆったりと舞を舞っている人を見た。その後ろに数人の人が立っている。
「踊っているのはファルさんかな」
 少女のように見えるが少年だ。
 酒場で見かけることが多いが、ここ最近は田畑でも姿を見ることが多くなった。
 地属性の魔法を使えるからだ。
 彼は独特の舞で精神を集中させ、土地の回復力を高める魔法を発動させている。
 豊作祈願の舞と言うべきか。
 アウロラとトモシは舞が終わるまで待った。
 この舞の報酬として、ファル(ファーリア)は今夜の寝床と夕飯をもらう。
 畑の持ち主から感謝の言葉を送られたファルは、あぜ道に立つ二人に気づいた。
「お疲れ様です。今お帰りですか?」
「帰りというか、もう一仕事あればというか」
 トモシが答えたところで、ファルはここに来る途中の畑で見かけたリリステラのことを話した。
 何やら鬼気迫る雰囲気で土を睨んでいたので、気になったのだ。
「少し様子を見てきます」
「一緒に行くよ」
 トモシとアウロラもファルの後について歩き出した。
 あぜ道を並んで歩く三人の口数は少ない。
 疲れているからというよりも、毎日接することでわかってしまう土地の衰弱が原因だ。
 働いている地属性の魔術師は精いっぱいやっている。
 それでも、障壁に閉ざされ、自然の循環をも閉ざされた大地が生命を育む力を失っていくほうが早かったのだ。
 それに、地の魔術師がそれぞれ個人で活動していることもあり、全体的な把握ができていない。
「このままじゃ、ダメよね……。せめて少しでも現状維持に近づけたいな」
 トモシもファルも、アウロラと同じような思いで何か手はないかと思案した。

 リリステラは、やり場のない怒りと憎しみを吐き捨てるように、畑に力を注いだ。
(どうして、こんなところでみんな生きているんだろう。あの時、死ねばよかったのに。だって、わたしを作った人はもう……)
 リリステラは自身を魔法で作られた人工生命体だと思い込んでいた。
 どうしてそう思うようになったのかは、記憶が曖昧でよく覚えていない。
 そして彼女が自分を作り出したと思っている人は、大洪水で亡くなってしまった。
 自身に命令を下す人を失ったリリステラは、どうしたらいいのかわからなくなった。
 そしてその混乱は、生き残った人々を憎むことで今は落ち着いている。
 存在意義を失くした彼女は、魔法力をひたすら土に返していた。

「あ、いた。リリステラさーん!」
 畑の奥に肌をほとんど見せない服装でうずくまるリリステラを見つけ、トモシが呼びかけた。
 リリステラは、一瞬だけトモシ達に目を向けたが、すぐにそらしてしまう。
「うん……いつも通りかな」
「そうですね……」
「でも、辛そうだね」
 最後のアウロラの言葉にトモシもファルも頷いた。

 

 ◆第八章 領主の館
 領主の館の客室で寝泊りしているステラ・ティフォーネは、庭の手入れをしていた。
 この館の庭は広く、伯爵は泊めている客が庭を散策することや、気に入った草花や花木の手入れをすることを許していた。
 そうすることで、少しでも心が慰められるならと思ってのことだ。
 もっとも、ステラの場合は少し違い、貴族と言っても没落した家だったので、他の貴族のところで働いていた経緯がある。そこで、ここでも進んで雑用をこなしていたのだ。給金も出ている。
 彼女のように仕事をする貴族は他にも何人かいた。
「季節のないここで、花は咲くのでしょうか……」
 どこか突き放したように言いながら、花壇の雑草を抜いていく。
 ふと、足音が近づいてきた。
 どこかの貴族が散策に来たのかと思い、腰を上げる。
「あら、ステラさん。こんにちは」
「こんにちは、マーガレットさん。今日は具合が良さそうですね。顔色が良いですよ」
「ええ。それで、少し歩こうと思って出てきたのです」
 軽く言葉を交わすステラとマーガレット・ヘイルシャム。
 マーガレットの手には筆記用具があった。
 ステラはそれに目を留め、尋ねる。
「何かおもしろいことはありました?」
「おもしろいかどうかはわかりませんが……午前中、伯爵と騎士団長のアイザックさんがお話ししている様子を窓越しに見ました」
「箱船のことかしらね……」
「あのお二方は、なかなか篤い信頼関係で結ばれているようですね」
「そうね。護衛の意味もあるのでしょうけど、よく行動を共にしているのを見かけます」
 その時、散歩にきた他国の貴族が二人に話しかけてきた。
「ごきげんよう。ねぇ、先ほど門前でちょっとした騒動があったのをご存知?」
 くすっ、と少し意地悪く笑い、彼女は続ける。
「変な身なりの女が魔法鉱石を見せてくれって騒いでいましたのよ。箱船計画に必要なものを、あのような狂人じみた者に見せるわけがないじゃないですか」
 ほほほ、と笑いながら彼女は優雅な足取りで去って行った。
 魔法鉱石はとても貴重なものだ。
 特にマテオ・テーペ内に新たな魔法鉱石が眠っていそうな鉱脈がないため、伯爵が厳重に管理していた。
 ところで、門前で騒いでいた人物というのは、Drカーモネーギーという女性だ。年齢のわりに白髪の多い茶色の髪はボサボサで、服の上からでもわかる痩せた体でだいたいいつもよれた白衣を引っ掛けている。研究用のグルグル眼鏡をかけているため、容姿ははっきりしない。
 その姿だけでも充分奇人だが、性格もかなり変わっているので、一度見た人はたいてい忘れないだろう。
 彼女の相手をするはめになった門番はうんざりしていた。
「何度も言うけど、貴重な魔法鉱石をおいそれと見せることはできないんだ。それも、どこの誰とも知れない人にはね」
「だから吾輩は魔鉱王であると、何回言えばわかるネギ! 吾輩に任せれば、もっと性能の良い魔法具ができること間違いなしネギー!」
「魔公王……?」
 おざなりに聞いていた門番はそう認識すると、憐れむような目をDrカーモネーギーに向けた。
「その目は何だネギー! キーッ、お主じゃ話にならないネギ!」
 Drカーモネーギーは地団駄を踏んで喚き散らすと、足音も荒く立ち去っていった。

◆第九章 これから
 水の神殿を囲む森で、ユリア・ジグモンディは剣の鍛錬をしていた。
 公国の騎士としていつでもどこでも、要請があればその能力を発揮しなければならないと考える彼女は、日々の鍛錬を怠ることはなかった。
 特に基本は大切にしている。
 この森は静かで、精神集中にはちょうど良かった。
 仮想の敵と対峙する彼女は、ふと誰かが近づいて来る足音を耳にした。
 構えを解いて音のほうを向くと、同じ公国騎士のナイト・ゲイルだった。
「音がするので見に来たのだが……邪魔をしたようだな」
「いいえ。よかったらご一緒にどうですか?」
「いや、今は見回りの途中でな」
「そうでしたか。ご苦労様です。そういえば、そろそろルース姫が館に戻る刻限ですね」
 ルース姫の周りはウォテュラ王国から同行してきた護衛の近衛兵ががっちり固めているが、ナイトはその一行から少し距離を取り狼藉者が出ないようさらに目を光らせていた。
 そして姫が神殿の奥の間にこもっている間は、港町や造船所などの見回りをしていた。
 何故か彼と目が合うと、みんな怯えたように目をそらしてしまうのだが……。
「このマテオ・テーペはいくつもの問題を抱えています……」
 森の向こう、水の神殿のほうを見やり、ぽつりと言うユリア。
「私達にもっとも関わり深い治安のこと、食糧問題、障壁のこと、箱船……」
「人ひとりができることなど、たかが知れている」
 ナイトのつっけんどんな言い方に、しかしユリアは素直に受け止めて頷いた。
 その時その時、やれる人が対処する。
 そうやって一歩ずつ進んでいくしかないのだ。

◆エピローグ
 港町の、ある一軒家。
 ここはもともとは彼のものではなかった。
 もとの家主は一家で避難船に乗ったため空き家だったものを、リルダにかけあって住まわせてもらっているのだ。
 家の中はほとんどいじっていない。
 他国出身のため少ない手荷物を置く場所と、ベッド一台に手を入れたくらいだ。台所用品や食器は好きに使わせてもらっている。
 彼は外国の騎士であったことを示し、領主の館で働いていた。
 一日の仕事を終えて、今戻って来たところだ。
 灯したランプの明かりを受けた彼の表情は険しい。
 領主の館や港町の人達に見せる穏やかさはどこにもない。
 しばらくじっと灯りを睨むようにしていた彼が、怒りをにじませて呟いた。
「伯爵め……うまく人々をごまかしているようだが……すぐにその化けの皮を剥いでやる。現状に不満を持つ者はおおい……まずは仲間を集めて……」
 その言葉は、誰に聞かれることもなく消えていった。

 

参加者一覧