10月度休日シナリオ

 

『とある休日の物語 第3話』

 

■日常に薫る優しい香り
 シャオ・ジーランは相も変わらず、大道芸や店の手伝いなどで日銭を稼いでいた。
 目的は、いまや貴重なものとなった酒である。
 しかし、貴重なだけあってなかなか酒にありつけることはなかった。
 実際今日も酒は手に入らず、町をぶらぶらと歩いているだけである。
 ――酒と言えば、あの時飲んだお酒は美味しかったな……まあ、いい思い出ばかりじゃないけれど。
 シャオは七夕の時のことを思い出す。転んだのは痛かったが、あの時もらえた酒は格別だった。
 本格的に芸で食っていくのもいいかもしれない、とも思う。箱船に乗れるかどうかは分からないが、どちらにしても食ってはいけそうだ。
 ――ん?あれは。
 そんなことを考えながらあてもなく歩いていると、斜め前を歩く人の中に見知った顔を見つけた。
 それは造船所の食堂で働く女性、カヤナ・ケイリーだった。
「あ、カヤナさんじゃないですか。今日はおやすみですか? 私もさっき起きたんですよ」
 そのちょっと眠たげな顔つきに何故か不思議な共感を覚え、シャオは自然に声を掛けていた。
 声に振り向いたカヤナは、一瞬怪訝な顔をした後、ああ、といった感じで首を縦に振る。
「なんだ、新手のナンパかと思ったら、シャオさんじゃないですか」
 そしてわざとだろうか、シャオの話しかけた言葉と同じ言葉を返してくすっと笑った。
「ナンパかあ、それでもいいですけどね。でもせっかくだから、お茶菓子でも作って皆さんにでも振る舞いませんか? 私の故郷の菓子、というかお茶請けですが、瓜子(ぐあず)という種を乾燥させて煎ったものがあるんです、酒のアテにもなりまして……蒸留酒なんかとは特に……もうめっきり飲んでませんがね……」
「うーん、食堂は今日は休みだから振る舞いなんかはできないけれど、その瓜子ってのは気になるかも。作り方、教えてくれない? お酒は無理だけどお茶くらいなら出すから」
 そんな話を振ってみると、カヤナは少し考えた後、そう答えた。
 それは、シャオとしても食べ物とお茶にありつけるという意味で悪くない提案だった。

「いいんですか、ここ、勝手に使っちゃって」
 案内されたのは造船所の中にある食堂だった。さっき言っていた通り今日は休みらしく客はいない。
「大丈夫大丈夫、ちゃんと片付けておけば。ちょうど仕込みしないといけないかぼちゃがあるから、ちょっと待ってて」
 道すがら、かぼちゃやスイカ、ヒマワリの種などを使うことが多いという話はしていた。カヤナは手早くかぼちゃを切り分け、中のワタを取り出して洗い、種だけをとりまとめていく。
 それを受け取ったシャオはフライパンを借りて、種を乾煎りし始める。
 カヤナはそれを見ながら、棚から何かの缶を取り出した。
「あー……やっちゃったなあ」
 どうやらその缶の中身はお茶らしかったのだが、蓋がきちんとしまっていなかったのか茶葉がだめになってしまったらしい。
「なんとかなりますよ。それもこっちにくださいな……私の故郷には『うーろん』というお茶があり、それと合せると、ほんとうにまたーりするのですよ、これもちょっと煎ってお茶にすれば、似た味になります」
 言いながら、種を炒ったそのフライパンでそのまま茶葉も炒る。
 ほどなく、お茶の香りが辺りに立ち込め始めた。
 それを見ながら、なかなか良い香りね、とカヤナは呟く。
(なんだか、カヤナさんの雰囲気は私の母に似ている気がしますねぇ……)
 シャオはフライパンを揺らしながら、ぼんやりとそんなことを思うのだった。


■想いを込めて
 ステラ・ティフォーネは自室にいた。
 時間は夜。薄い月明かりと、机の上のランタンが部屋をぼんやりと照らしている。
 そんな中ペンを持ちながら、ステラは一人、深く自分の心に沈み込んでいく。
 箱船の出航が近付いてる。
 それにつれて思う。
 全員が箱船に乗れるとは思っていない。
 また、箱船自体が無事に戻ってくる保証も無いはず。
 もっとも、ステラはそうしたことを思っても、それを感情として表には出さない。
「取り乱すなど貴族らしくないですからね」
 そこで初めて、想いが小さく声に出た。ただ、その言葉を聞きとる者はここにはいない。
 とはいえ。
 ――何も残らないのは、それはそれで寂しいのではないか……。
 そうも思う。
 そうして少しの間をおいて、ステラはゆっくりとペンを走らせ始めた。
 マテオ・テーペでこれまで起きた出来事を。
 水没してから、今日までのことを。
 自分が体験してきたこと、そして、自分が知る限りの出来事を書き記す。
 それは例えば、閉鎖空間であるこのマテオ・テーペで表出化していた、貴族と平民とにできた大きな溝の事。
 自分が野外病院で働き、皆とマテオ・テーペに登り、そして自警団に入って、見て、感じてきた事。
 今は、自分に冷たい視線を向ける平民はいないし、貴族でも自分と共に汗を流して働く者もいる。
 完全にではないが、貴族と平民の溝を埋められたのではないか、とそう思う。
 今この小さな世界を取り囲む状況は、もちろんそのすべてをステラ自身が知っているわけではないが、相当厳しいものであるということは感じられる。そういったことも、自分の想いを通しつつも、できるだけ知っていることを書き連ねる。障壁のこと。地震のこと。その他たくさんのことを。
 できるだけ、できるだけ。
 そして書き終えたものをざっと見直すと、用意しておいた瓶に入れた。
 コルクで栓をして、蜜蝋できちんと封をする。
 そして、部屋の中の棚にそっと置く。
 それは、誰とも知れない誰かに向けたボトルメッセージ。
 この世界があった記憶と、自身のあった証だった。
 ――私が死んで、もしもこの瓶が……瓶が割れる可能性はあるけど……。
「これだけが、私の生きた証になるでしょうね」
 また少しだけ声に出る。
 その声は部屋の中で少しだけ反響して、月明かりの中にじんわりと消えていった。
 そんな中、ステラは瓶を見つめながら、寂しく笑うのだった。


●特に騎士とか……
「お話ししたいことがります」
 と、貴族のマーガレット・ヘイルシャムは、警備隊隊長のバート・カスタルを領主の館の庭園に誘い出していた。
 休みの日だというのに、バートはきちっとした格好をしている。
 マーガレットと過ごすにあたっての最低限の身だしなみを整えてきた……ということだろうか。
 こういった彼の姿勢からも、彼の中の自分が不相応に美化されていると感じて、マーガレットは辛くなってしまう。
「この場所はあまり花が咲いてないな……ま、目の前にとっても綺麗な花が在るけれど」
 笑みを向けてくる彼に対して、マーガレットは軽くため息をつく。
「私は、あなたが思っているような人間ではありません」
 向かい合い、椅子に腰かけて互いを見た。
「自分が健康でないことを理由にして、人を遠ざけてきただけの小賢しい女です。私は怖かったのです」
 視線を落として、マーガレットはテーブルの上に置かれた、バートの大きな手を見詰めた。
「人の温もりを求めて延ばした手を拒絶されることが……。試みる勇気もなくて、それを健康のせいにした」
 マーガレットは緊張しつつ、自分が書いた本をテーブルの上、彼の手の前に置いた。
「それに私はあなたに隠れてこのような作品を」
 『薔薇騎士物語』と記されたそれは、マーガレットが秘かに書き連ねてきた騎士団長と伯爵がモデルの男同士の愛の物語だ。バートをモデルとした若き騎士も登場している。
「マテオ・テーペ回顧録の執筆の話は本当ですけど、最初にあなたに近づいたのにはこういう魂胆もあったわけです」
 本をぱらぱらとめくったバートは、困惑の表情を浮かべていた。
「以前は普通の恋愛物もてがけていました。
 でも、前に言いましたけど私は恋愛経験がなくて、納得できる作品は作れませんでした」
 ページが進むにすれ、バートは唸り声をあげ難しい顔をしていく……。
「この作品そのものに恥じる物はありません。
 作者として、読んでくれた人にも失礼ですから」
「しかしな……」
「つまらない物書きの矜持ですし、このことを理解してもらおうとは思ってはいません。
 ですが、あなたを欺いた事実は心から謝罪します」
 マーガレットはその場で深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい、バート」
「なんか思考がついていかないんだが、とにかくこれはマズイ。伯爵や団長を連想させる内容だし、お2人を貶める内容となると看過、でき……ない。
 ……いやもうホント、勘弁」
 バートは言葉の途中で吹きだし「やべー首になる」などと言いながら、声をあげて笑う。
「ゴメン、これ一応純粋なラブストーリーなんだろうけど、モデルが分からないように書いてくれよ。そーゆー目で読者に見られると、仕事に影響が出るから!
 君は趣味の物書きじゃなく、プロなんだろ?」
 おかしそうに笑う彼に、マーガレットはもう一度素直に謝罪をした。
 そして彼の手から戻ってきた『薔薇騎士物語』を両腕で抱えながら、バートが落ち着くのを待った。
「君ってお堅いイメージがあったけれど、実は結構緩いというか、おかしな面もあったんだな……」
 感慨深そうにバートは言う。
 逆に、こういった本を嫌悪するような女性に、見えていたらしい。
「こんな私ですけど、この気持ちだけはあなたに伝えさせてください。
 今日お呼びしたのもその為です」
 自作の本を胸に抱きしめながら、偽りのない真剣な目をマーガレットは彼に向けた。
「あなたのことを愛しています、バート。
 もし、許されるなら、これからもあなたの傍に、いたいのです」
「うん、これからもよろしく」
 バートは明るい笑みを浮かべてそう答えた。
 そのあっさりとした返事に、あ、この人解ってない。とマーガレットは内心頭を抱えるのであった……。


●可愛い彼女
 その日、クロイツ・シンが市場を訪れていたのは、買い出し当番だったから。
 ゆっくり市場を見て回り、買い物をしていたクロイツは、帰り際彼女を見つけてしまった。
 カヤナ・ケイリー。
 先日、メッセージカードで告白をした女性。クロイツの想い人だ。
 今日は特に彼女と会うための準備などしていない。
(遅くまで頑張ってたんかな、眠そ……)
 どうしたものか、声をかけていいものかと悩んでいたところ、視線に気づいたのか、カヤナがこちらに顔を向けた。
 クロイツを見つけた彼女の顔に、笑みが浮かび、輝いた。
 ほっとしながら、クロイツは彼女に近づいた。
「よぅ。休日? 俺はこの通り買い出し。夕飯当番俺だしな」
「私は休み。そうなんだ、それにしても凄い量ね。何作るの?」
 荷物を見ながら、カヤナが尋ねる。
「アウフラウフ作ろうかと……」
 夜も空いているようなら、一緒にどう? と聞いてみたかったが、カヤナ1人誘ったんでは、弟に紹介しているようになってしまうなと、クロイツは思いとどまった。
 彼女を好いてはいるけれど、迷惑はかけたくなかった。
「どんな料理? 食堂の料理は定番のものが多くて、他国の料理とか私あまり知らないのよね」
「母親のレシピで良ければ、今度書き写して渡すが。
 俺の両親両方家事が好きだったから、レシピには困ってねぇけど、そっちで何かお勧めのレシピあったら交換しようぜ」
「港町でお店開いてた頃のレシピでよければ。あ、私が考案したものじゃないから、両親に聞いてみるわね」
 そこで話が途切れる。
 クロイツは荷物を抱えていて、これまでのように食事にも、お茶にも誘うことができなかった。
 いや、出来なかったのではなく、彼女に迷惑をかけたくなかった。
 クロイツの想いに対しての彼女の返事をまだ聞いていないから。
(直接言いに来い。本気なら逃さないって言ってたよな。買い物のついで、みてぇなことはしたくねぇ……)
「それじゃ、夕食作り頑張……」
「ちょっとこれ持ってろ」
 離れようとしたカヤナに、クロイツは抱えていた荷物を渡した。
「えっ?」
「よっと」
 驚いている彼女を、荷物のように担ぐ。
「え、ええーっ?」
 そして造船所まで、数十分の距離をクロイツは彼女を担いだまま歩いた。
「わー……どうしよう」
 人々の視線を浴びて、カヤナは赤くなる。でも暴れることも、下ろして欲しいとも言わなかった。
 造船所の前にたどり着き、付近にいた作業員や騎士が何事かと視線を向ける中。
 クロイツは彼女を下ろして、地に膝をついた。
「好きだ」
 呆けた表情のカヤナの顔が、更に赤く、真っ赤に染まった。
「カヤナは最高に可愛い。くるくる変わるその表情も、経済観念も、笑顔も性格も全部、全部だ」
「あ、ありがとう……自分でいっておいて、ごめん。恥ずかしい。ええと……とにかく立って!」
 言われた通り立ち上がったクロイツの隣に並び、カヤナは彼の荷物をぎゅっと抱きしめながら、周りの人々に向けて言う。
「私は今日から、彼のものだから! 皆、祝福してよね」
 真っ赤に染まった笑顔で、カヤナがそう言うと拍手が沸き起こった。
「よろしくね、クロイツ。できれば末永く」
 赤い顔をクロイツに向けて、カヤナは恥ずかしそうな満面の笑みを見せた。


●掃除のあとは……
 神殿で自室の掃除をしていたサーナ・シフレアンのところに、ラトヴィッジ・オールウィンが訪れた。
「こう見えても、掃除は得意なんだ。サーナは?」
「実は自分で掃除すること、あまりなかったから得意じゃないの。……女の子らしくなくてごめんなさい」
「謝ることなんて何もない、サーナの身分じゃ当たり前だし」
 その分、彼女は小さいころから不自由な生活を送り、望まない勉強も沢山強いられてきたのだ。
「俺は、騎士たるもの、身の回りは常に清潔にって、養父殿に叩き込まれたからな。ピカピカになると気持ち良いし、好きだ。どこから手を付けるんだ?」
「あっちの方から、ぐるっとお部屋回っていくのが良いかな」
「よし、それじゃ棚の上から始めよう。掃除の基本は、高い所から低い所へ、部屋の奥から手前の順番ってね、養父の受け売りだけど」
 言って、ラトヴィッジははたきを手に、パタパタと棚の上の埃を落としていく。
「それじゃ、私は棚の中の埃、落すね」
 近づいてきたサーナに、ちょっと待ってと、ラトヴィッジは布を取り出した。
「埃、吸い込まないようにこれで口を覆うんだ」
 彼女の口につけて、紐で留めようと、ラトヴィッジはサーナを引き寄せた。
 サーナのさらさらの銀色の髪が、ラトヴィッジの手をくすぐる。
「……綺麗だな……良かったら結おうか?」
「え?」
「というか、結いたい……駄目かな?」
「あうん、もちろん。お掃除の邪魔になるしね。リボンならここに」
 ラトヴィッジはサーナからリボンを預かると、彼女の後ろに回って髪を手で掬った。
 首筋に彼の暖かな手が触れて、サーナの鼓動が高鳴った。
 何故だろう、髪を誰かに結ってもらうなんて、普通のことなのに。ドキドキ心臓が大きく音を立てることを、サーナは不思議に感じていた。
(柔らかくて、本当に綺麗だ。同じ人の髪とは思えないほどに)
 自分の髪とは違う、繊細で艶のある美しい髪の感触に、ラトヴィッジは心を奪われていた。
 少しでも長く触れていたい。そう思ってしまうが、それでは掃除が進まなくなってしまう。
 名残惜しくも、彼女の髪を手早く纏めてリボンで結んだ。
「よしそれじゃ、掃除再開だ」
 ラトヴィッジが壁や棚の上の埃を落し、サーナが踏み台を利用して中の埃を落とす。
 一通り終わったら、箒役と塵取り役を時々交換しながら、床のゴミを集めてとっていった。
「共同作業ってカンジでなんかいいよなー」
 ラトヴィッジの口から思わずそんな言葉が漏れる。
(夫婦っぽいというか……って、イカン。確実にニヤケているぞ、俺……!)
 キリッとしようと思うのだが、嬉しそうな表情のサーナを見て、ラトヴィッジの顔はますますニヤケてしまう。
 ゴミ取りが終わったところで、ラトヴィッジは一旦外に出て、桶に水を汲んで戻ってきた。
「次は雑巾がけだ!」
 雑巾を2枚濡らすと、まずは窓から拭いていく。
「これも高い所からやるんだ。うりゃ! 必殺雑巾2枚持ち!」
 子供のような屈託のない笑顔で、ラトヴィッジは2枚の雑巾を操り素早く綺麗に窓を拭いていく。
「サーナはここ、ここ。敷居の部分、拭いてくれるかな」
「うん」
 サーナはラトヴィッジに教えてもらいながら、一緒に部屋を磨いていく。

 掃除の後は、ソファーに並んで腰かけて、ラトヴィッジが持ってきた紅茶とクッキーを二人で食べた。
「こんなにお部屋綺麗になったの、初めてかも……」
「ピカピカになって気持ちいいな」
「うん」
 紅茶を飲み干して、サーナはカップをテーブルに置くと、ラトヴィッジに寄りかかって目を閉じた。
「ちょっと疲れたかな」
「お疲れ様、サーナ……」
 サーナの後れ毛がラトヴィッジの首をくすぐり、ラトヴィッジの顔に穏やかな笑みが広がった。

●続く復讐
 領主の館の外れにある館に、シャンティア・グティスマーレは、メイドのミーザ・ルマンダを伴い訪れていた。
 目的はそう、自分を拉致監禁した女性、アーリー・オサードへの復讐。
「採寸しますので、服を脱いでください」
 メジャーを手ににこにこミーザが笑みを浮かべている。
 面会室には、アーリーとミーザ、シャンティア、及び見張りの女性騎士の4人がいる。
 アーリーはここでは与えられたシンプルな服を纏っており、自分自身で服を用意することは許されていなかった。
 だが、火山に向かう際には動きやすい服装が必要となるだろうし、作戦が成功し、彼女が早期に釈放されるというのなら、その後身に着ける服も必要なはずだ。だとかなんとか願い出て、シャンティアはミーザと共にアーリーへの服の提供を許されたのだった。
「服なんていらないわよ」
「それでは裸でいいと? 露出度が高くないとお仲間守れませんよー。お手伝いしますね!」
 ミーザはとても楽しそうに、アーリーの服に手をかけてシャツを脱がした。
「ちゃんとサイズを計っておきませんと、みっともない格好になってしまいます」
 ふふふふと、シャンティアは妖しく楽しげな笑みを浮かべながら、ミーザと共にアーリーの身体を計っていく。
「あらもったいない。隠しておいていいものじゃないですよね、これ」
 ミーザがアーリーの大きな胸をじーっと見詰める。
 アーリーは手で胸を隠して、不満げに顔を背けた。
「アーリー、恥ずかしいのですか? あの時はあんなに体を見せつけていましたのに」
「うるさい」
 アーリーは僅かに顔を赤らめて、シャンティアを一瞬睨み、再び顔を背ける。
「はい、手が邪魔ですよー。お嬢様採寸お願いします」
 ミーザがアーリーの手を解いて掴み、その隙にシャンティアがアーリーのバストを計った。
「既製のものより、オーダーメイドの服の方が似合いそうですよね。わたくしがアーリーのためだけの服を用意して差し上げます」
 採寸を終えると、シャンティアはミーザに運んでもらったケースの中から、服を取り出してテーブルの上に並べていく。
「試着してみてください」
 有無を言わさない目でアーリーを見詰める。ちょっと涙でも浮かべてみせれば、騎士がシャンティアの言うことを聞くようにとアーリーに命じるはずだ。
「お手伝いしますからねー。はーい、腕をあげてください」
 ミーザがシャンティアに服を着せる時と同じように、憮然とした表情のアーリーに服を着せていく……。
「可愛い系……清楚系……お色気系……アーリーは意外なぐらい色々併せられる……?」
「可愛い服は合わないでしょ」
「似合います。とっても似合います……ふふふ」
 アーリーはすぐに反発するが、シャンティアは妖しい笑みを見せるばかり。
「サイズが合う服、残していきますから、着用してすごしてくださいね」
 そういって、アーリーがこれまで来ていた服を、ミーザに回収させた。
「見張りの兵士や訪ねてきた知り合いに……その姿を舐められるように……見られると……いいです……ふふ……」
 そして、ミーザと共にシャンティアは部屋を後にするのだった。
 アーリーは屈辱的に顔を赤らめ、2人を睨みつけていた……。

 帰りの馬車の中。
「余った服でサイズが合う中で気に入ったのあったらあげる」
 そうシャンティアが言うと、ミーザはぱっと嬉しそうな笑みを浮かべて「このお洋服、いただいてもいいでしょうか?」と、白地に花模様、レースのついた可憐な服を選んだ。
「ミーザ、とても嬉しそうですね。デートにでも着ていくのですか?」
 そう尋ねると、ミーザはちょっと迷ったあと、予定はいるといいなと嬉しそうに言った。


●出発前に
 障壁の外に在る火山に向かう日が近づいていた。
 深部同行者として選ばれなかったものの、トゥーニャ・ルムナは友人と共に作戦に協力をすることになっていた。 
 その日も彼女は1人、自室で魔力制御の訓練を行っていた。
(この前のバートさんが言った作戦の成功条件の一つ……『君も含めて一般人が全員無事に帰還すること』……これ、絶対にバートさん自身やレイザさんの事は含まれてないよね)
 深部には、警備隊隊長のバート・カスタル自身が行くことになりそうだった。
 そして、率いるのは貴族で魔法学校の教師のレイザ・インダーのようだ。
 レイザは港町の住民ではなく、魔法学校生ではないトゥーニャは彼のことをよく知らない。
 色々なことに興味を持ち、お散歩をして回っていたために、領主の館にいる貴族ということくらいは知っている。
(深部に行く人でも、港町の人は一般人、だよね)
 バートが言っていた一般人は、騎士でも貴族でもない人達だろうと、トゥーニャは思っていた。
 深部で何が行われるのか、彼らがどんなことをするのかは、説明会では説明されず、トゥーニャ達サポートに向かう者たちも知らされていない。
(火山の深部はマグマの中なんだよね。バートさんが道を作って、レイザさん率いるメンバーが行くってことだけれど……)
 進む道を作れば、それは自ずと帰るための道になる。
(最初から帰ることを諦めてる……少なくとも口に出してソレを望まない……そんな人間に今回の作戦を成功させることなんて出来るのかなぁ?)
 何か考えがあるみたいだけれど、帰ってくることを諦めるのは、結局ただ逃げているだけなんじゃないかとトゥーニャは思った。
 自分で新しい可能性を見つけようとしない様にしか感じ取れなかった。
「まぁ、実際はどうなんだか知らない人だから、分からないけどね」
 トゥーニャは目を開けて、ふうと息をついた。
「一つ言える事は……彼らが望む『住民への被害が無く作戦が終了する』と言う条件の中には、バートとレイザと言う二人の『住民』の命も含まれていると言う事を忘れちゃいけないって事」
 レイザのことは良く知らないが、バートは港町の出身の騎士だ。
 親交はなかったけれど、幼いころから同じ町で暮らしている、トゥーニャと同世代の同郷の青年。洪水の前からずっと、トゥーニャと一緒にこの町で暮らし、町を担ってきた仲間だ。
(ま、当の本人達がそれを忘れているなら、それ以外の人が補ってあげれば良いだけ、かな)
 と、トゥーニャは思う。
 自分を含め、補うだけの力を持つ仲間が揃うことを願いつつ。
 彼女は再び目を閉じた。
 そう、それをなす力がなければ、無駄死に、二次災害、共倒れになるだけ。
 彼女は深く、集中する。
 己の能力をより高め、皆の力となるために。


●小さな幸せ
「アーリーちょっといいか?」
 領主の館にある収容されている部屋にて。
 ウィリアムは物思いに耽っているアーリー・オサードをソファーに招いた。
「なに?」
 先日、互いに相手への気持ちを話して以来、彼女は少しウィリアムに優しくなった。
 だけれど彼女の暗い表情は変わらない。
「言えないなら、無理に言わなくてもいいが、結局、お前の言っていた夢ってなんだんだ?」
「オサード帝国建国」
「は?」
「……なんてね」
 と、アーリーは一瞬目を逸らすも、すぐにウィリアムに視線を戻した。
「あなたには夢、あるの?」
「そうだな……俺は、あれだ」
 ウィリアムは考えつつ、将来の望みを言葉にしていく。
「船に乗り陸地が有ったら、仲間は会えたらいいなっていうのは望み薄だが、現実的には、漁師か大工かなぁ。今なら、食えない事はないだろうしな」
「なんだかすごく普通ね、夢のくせに。普通のアルザラの港町の住民と変わらないじゃない、それ」
 アーリーの言葉に「ああ」とウィリアムは首を縦に振る。
「漁師なら、恐らく釣れたての魚の美味しい処を頂ける可能性もあるし、俺的には有望だぜ。アーリーもどうだ?」
「どうだって、私がそんな普通の生活望めないの、わかってるでしょ。誰にも発見できないような無人島で漁師をしながら、私を匿って食べさせてくれるっていうのなら、悪くはないわ」
「そこでアーリーの夢、叶えられるのか?」
「無理ね」
 薄く自嘲的な笑みを浮かべ、アーリーは目を伏せる。
「築こうか、その島でオサード帝国」
 ウィリアムがそう言うと、アーリーは驚きの眼を、彼に向けた。
「俺も死んだような身ではあるし、最悪どこまでもアーリーについて行ってもいいと思ってる面はある。
 まぁ、今回の件やれるだけやってみたら、また考えようや」
 そう、ウィリアムがアーリーに微笑みかけると彼女は弱く微笑み――。
「ごめん、なんかじーんときた」
 彼女の目に涙が浮かんだ。
「馬鹿みたいね、今更。なんていうかほんのちょっと幸せ感じた」
 穏やかで切なげに、アーリーはウィリアムを見つめる。
「もう少し早く、あなたに会いたかった。でもそれじゃ、こんなふうに2人で一緒にいる関係にはならなかったでしょうね」
「船に乗れたら、また夢聞くぜ? レイザを生かせて帰れるといいな」
 ウィリアムの言葉に、アーリーは素直にこくりと首を縦に振った。
「……そういえば、例の魔力を留まらせる技って、結局どんなんなんだよ、無理ってそんなにアレなのか?」
「それは無理、私彼に習えないもの」
「難しいのか?」
「というかね……あの男、生きててくれなきゃ困るんだけど、嫌いなのよね」
 アーリーは不機嫌そうに口をへの字に曲げながら、ウィリアムに話す。
「最初に、2人きりで会った時、彼、私に何て言ったと思う?」
「んー、思いつかん」
「痣がないか確かめるから、さっさと脱げ」
「……」
「秘術も、教えてやってもいいって引き寄せられたけど、私、殴り飛ばしたわ」
 とりあえず、レイザからアーリーが習うのは無理らしい。
 もう少し彼女の側にいてあげるべきだったかなと、ウィリアムは思う。
 だがきっと生きていれば、取り戻せる。語り合い、共に過ごす時間を。
 互いに、生きてさえいれば。


●あなたを支えられる人に
 火山に向かう少し前。
 バート・カスタルは久しぶりの休日を、港町の宿舎でいつものように寝て過ごしていた。
「今日も寝癖……あるんでしょうね」
 ピア・グレイアムはお土産を持って彼の部屋を訪れ、ノックをした。今日伺うことは、予め彼に話してある。
 目を擦りながら出ていた彼の髪にはいつものように寝癖がついていて、服には皺があった。無防備なありのままの姿だった。
 くすっと笑いながら、ピアは「おはようございます」と挨拶をして、持ってきたバスケットを抱え上げた。
「今日はバートさんが良かったら、バートさんのお部屋でもいいですか?」
 ピアがそう尋ねると、バートは「えっ」と驚いて、考える。
「んー、ここ単身用の部屋で、彼女を連れ込んだりするの禁止されてるんだ……念のため他の部屋がいいかな」
 ははははっと、バートは照れたような笑みを見せた。
 ということで、2人は管理人に話して空き部屋を借りた。

「お土産です」
 部屋に入って荷物をおろすと、ピアはミニブーケをバートへ渡した。
「ありがとー、可愛らしい花だな、まるでピアのようだ」
 心地良い花の香りに、バートの顔がほころぶ。
 テーブルの上にブーケを飾り、それからバスケットの中のパンと飲み物を取り出して、2人で一緒に食べていく。
「こちらは今、店で一番人気のあるパンで……」
 パンや来店客のこと、町の人々の他愛もない日常の話、そして食事をピアとバートは楽しんでいく。
 バートにとって、ほっと安らぎを感じる時間のようで、普段より彼の顔が優しく、穏やかで嬉しそうで……彼の表情にピアは愛しみを覚える。
 そんな幸せな食事を終えた後。
「そうだ」
 と、ピアは向いに座るバートに手を伸ばした。
「これまで魔法の訓練を頑張ってきた分、以前より上手にヒーリングができるようになったと思うので……ちょっとだけ、目を閉じててもらってもいいですか?」
「え? うん」
 バートはピアに手を差し出して、目を閉じた。
 彼の手に自分の手を重ねて、ピアは意識を集中する。
 心を乱さず、彼の体力を回復させることだけ考え、力を注ぐ……。
「……どうですか?」
 ピアが問いかけると、バートは目を開いてこくりと頷いた。
「楽になったことが、実感できた。ピアはホント凄いな。魔法学校の一般教師程度では太刀打ちできないレベルだ」
「嬉しいです」
 とバートに笑顔を向けた。
 褒められたことよりも、バートの元気の源となれたことが嬉しかった。

 少しの雑談を終えた後、部屋を片付け2人はバートの部屋の前に戻った。
 彼の手の中には、ピアが贈ったブーケがある。部屋の玄関に飾るとのことだ。
「今日は、バートさんに伝えたいことがあって……」
 別れ際、ピアはバートの目をまっすぐに見て言う。
「私、バートさんの事が好きです」
 ピアの言葉に、バートの緩んでいた顔が一気に引き締まった。
 そう。彼が守ろうとしている町の住民である、自分に。
「向けてくれた笑顔が嬉しくて……バートさんが笑顔でいられるよう、お返ししたくて……そしたら、気づいたら好きになっちゃってました」
 互いに、緊張した面持ちで顔を赤らめ、向かい合っていた。
「大変な時に……ううん、だからこそ、伝えたくて」
 そして、ピアはふわりと可憐な笑みを浮かべる。
「私、バートさんが皆を支えてくれてるように、バートさんを支えられる人になりたいです」
「あ……ありがとう。嬉しい。ホント、うん」
 バートは照れながら、たどたどしい口調で答えていく。
「恋愛している余裕、ないから……。それ以上何て答えたらいいのか、わからないんだけど……ホント、嬉しい。ありがとう」
 支え合い、作戦を成功させようと2人は誓い合ったのだった。


●前日
 火山対策、作戦決行の前日。
 アリス・ディーダムは、実習生に割り当てられた部屋にいた。
 この部屋にいられるのはあと少し。
 彼女は魔法学校を辞めることにした。
 夜、真っ暗な部屋の中でアリスは星空を見上げる。
 本当の空ではない。自室に作った星空。
 レイザ・インダーの誕生日に、2人で見上げたプラネタリウムだ。

 本当は、いかないでと言いたい。
 素直な気持ちで、彼を引き止めたいのに。
 アリスには言えなかった。
 明日は笑顔で「行ってらっしゃい」と言うのだと、決めていた。
 どんな時でも、彼の前では笑顔でいると。
 自分が笑顔でいることが、彼の安らぎになることを知っているから。
 それでも、今でも家族と――両親と暮らしていたのなら、彼に『行かないで』と言えただろう。
 だけれど、両親が行方不明になってから、アリスが誰かを困らせる我が儘を言うことはなくなった。
 プラネタリウムの星の光の下で、アリスは手紙を広げて眺める。
 彼からもらった、何枚もの手紙。
 最後の返事はまだ届いていない。全てが終わってから、アリスに届くように手配するとのことだった。
 それが『最期』の手紙になる予感がして、アリスは不安で仕方なかった。
 アリスは希望を持ち続けていた。
 だけれど、彼に希望がないという現実も知っていた。
 それでも、希望を持ち続けていたけれど……。
 手紙を胸に押し当てて、ぎゅっと抱きしめる。
 彼と過ごした楽しかった日々も沢山つまった手紙。
 アリスの目から涙が流れ落ちていく。
「……っ」
 声を殺して、唇を噛んで彼女は泣いていた。
 目が腫れてしまう。笑顔で見送ると決めたのに。
 彼はアリスの笑顔を望んでいるのに。
 溢れる気持ちを抑えられず、彼の手紙を抱きしめながらアリスは泣き続けた。
 神殿に行き、聖石に力を注ぐことはレイザに話していなかった。
 止められるということが、分かっていたから。
 何もせずに待つなんてできない。
 好きな人に生きていて欲しい。
 だから、自分にできることを、出来ることがあるのなら、何でもしたかった。
 彼が、望んでいないということが解っているから――とても、辛いけれど。

 星空の下で、彼女はいつしか眠りに落ちていた。
「生きていて……」
 彼の手紙を抱きしめたまま、彼女の口から切なる想いがあふれ出た。


◆木漏れ日の下で
 手にバスケットを提げ、リルダ・サラインが待ち合わせの場所へ行くと、相手はもうすでに来ていた。
 しかし、彼──トモシ・ファーロが羽織っているものを目にして、リルダは不思議に思って足を止めた。
 トモシは気合を入れて仕事をする時に、よく白衣を着て取り組んでいる。本人が戦闘服と呼んでいるものだ。
 それを、着ていた。
 確か今日は二人で森へピクニックに行く約束をしていた、はずだ。
 難しい顔つきで記憶をおさらいするリルダにトモシが気づいた。
「あっ。リルダさん、おはよう!」
「おはよう。えーと、その白衣は……?」
「ああ、これ? ちょっと……気合入れに」
「気合い?」
「まあ気にしないで。それより、早く森に行こう。とっておきの場所があるんだ」
「あ、ちょっ、ちょっと待ってよ」
 リルダを急かしながら足早に森の小道へ入っていくトモシを、彼女は慌てて追いかけた。
 深い森は人工太陽の光を遮り、薄暗く肌寒ささえ感じさせたが、30分も歩くと急に頭上を覆う枝葉がなくなった。
 ぽっかりと開けた場所は小さな花々が咲き、ひらひらと蝶も舞っている。さらにどこからか鳥の囀りも聞こえてくる。しかし、それ以外の音がしない静かなところだった。
 リルダは、しばらくそののどかな景色に見惚れた。
「こんなところがあったなんて……」
「びっくりした? 俺のお気に入りの場所なんだ。綺麗だから、リルダさんに見せたいなって思って」
「いい場所ね。とてもホッとするわ。私もたまに森に入るけど、最近は材木集めが目的だったから、のんびり自然に親しむ暇なんてなかったのよね」
「今日は、たっぷり親しんでほしいな。お昼も用意してきたし。……ん、ちょうどいい木陰。それに地面も平らだから、ここにしよう」
「手伝うわ」
 二人で手早く敷布を広げ、トモシお手製のサンドイッチがお披露目される。
「種類は二種類。がっつりお肉とふわふわの厚焼き卵。デザートにフルーツをどうぞ」
「おいしそうね! 遠慮なくいただくわ。私からはこれを」
 リルダが小ぶりのバスケットから取り出した包みには、クッキーがたっぷり詰まっていた。
「凝ったものは失敗しそうだったのよね……。はちみつ多めのクッキーよ。ちゃんと味見もしたから安心して」
 こうして、リルダは好物のお肉のサンドイッチから、トモシはクッキーから手を付けた。
 おいしいを連発するリルダは、多めに作られたサンドイッチのほぼ半分をぺろりと平らげてしまった。
 対して、クッキーは大半がトモシの腹に収まっている。
 そして、食後にフルーツでゆっくりしているリルダを眺めているうちに、気づけばトモシの口から言葉がこぼれていた。
 ずっと胸にたまっていた想いだ。
「俺、リルダさんが好きです」
 食べかけのリンゴを持ったまま、リルダは目を丸くして固まってしまっていた。
 予想できた反応とはいえ、トモシの口元には苦笑が浮かんでいた。
「俺は、まだ足りないところがいっぱいあって努力が必要だけど、リルダさんが近くにいて、笑うのを見るとすごく嬉しくなる」
「私……自分が年増だって、自覚してるわよ……」
「あはは、そんなの。リルダさんを支えられるようになりたいし、頑張って共に生きていきたいんだ。これからも、傍にいたい、です」
 もともと仕事中毒気味で、大洪水後は港町の人達のことで頭がいっぱいだった。
 恋愛は他人事、路傍の花──無意識にそう見なしていた。
「あ、あのっ、返事は今じゃなくていいから。みんなで助かって一息ついた頃にでももらえれば」
 石像のようになってしまったリルダの前で慌てるトモシを眺めているうちに、リルダの心の奥深くにあたたかい何かが灯った。


◆この景色を胸に刻んで
 イリス・リーネルトとリック・ソリアーノは、予定通り昼過ぎにマテオ・テーペの頂に到着した。
 港町方面に定期的に風を送るため山道はだいぶ整備されていて、二人が初めて登った時と比べてかなり安全に頂上を目指すことができた。
「はぁ、やっと着いた……やっぱり疲れるね」
「でも、がんばったかいがあったって言える眺めだよ」
 汗をぬぐいながら言うイリスに、リックも頷く。
 二人は縁のほうに歩み寄り、港町のほうを見渡した。
 あそこがもうじきなくなってしまうのだと思うと、胸の奥がきゅっと詰まる。
 しばらく言葉もなく並んで眺めていた二人だったが、やがてイリスがリックの袖を引いて言った。
「おべんと、食べよう」
「そうだね。お腹減っちゃった」
 敷物の上に広げられたイリス手作りのお弁当は、ハンバーグサンドに食用ミニトマト、塩茹でしたブロッコリーとかぼちゃのサラダであった。
 どれもとてもおいしくて、二人は先ほどの切ない気持ちを忘れることができた。
「イリスって本当に料理上手だね」
「お父さんが仕事してるから、わたしが家のことしてるの。だから、自然と」
「そっか……そういえば、お母さんと弟さんは避難船で行っちゃってるんだったね」
「うん。いつか外に出れたら、二人に会いたいな……」
「きっと会えるよ。その時は、僕のことを紹介してね」
「もちろん」
 それからイリスは、母と弟がどんな人だったかを話した。
「リックは? リックの家族はどんな人?」
「お父さんは知ってるよね? お母さんは家にいるよ。怒るとすっごく怖くてお父さんもタジタジになるんだけど、ふだんは落ち着いてるよ。あんまり動じないって言うか……大洪水で僕が不安になった時、男爵の息子がそんなんでどうしますか、なんて叱られたんだ」
「もしかして、厳しい人……?」
 いずれ会うかもしれない人を想像し、イリスはわずかに緊張した。
 しかし、リックはそれを朗らかに笑い飛ばす。
「しっかりした人って言えばいいのかな。お父さんが細かいことを気にしない分、お母さんが引き締めてる感じ。趣味は刺繍だよ」
 リックの兄と姉は、現在行方知れずだ。
 けれど、リックも両親も、どこかで生きているはずだと信じている。
 兄は公都で働いていて、姉はすでに嫁いでいるという。穏やかな性格の兄と、豪快な性格の姉だった。
「性格はご両親のが逆転した感じなんだね」
「あはは、そうだね。でも、お兄さんはとても不器用なんだ。お姉さんはあんな性格なのに、編み物が得意なんだよね。不思議」
 本気で首を傾げているリックに、イリスは小さく笑う。
「リックの家族もきっと生きてる。それで、いつか、わたしの家族とリックの家族とで会うの」
「うん、それすごくいいね!」
「あと、星を見たい。やっぱり、星がないと寂しいから」
 おしゃべりしているうちに、お弁当はすべて二人の胃に収まってしまった。
 食後のお茶を飲みながら、イリスが提案する。
「ねぇ、また虹を作ろうよ。見た人が少しでも元気になるように」
「いいね。夕方になる前にやろう」
 空になったお弁当を手早く片付け、二人は再び縁に立った。
 心を合わせて水の魔法で霧を生み出す。
 前の時のように風はないが、頭上に作られた霧に虹が輝いた。
 虹を見上げる二人の手は、いつの間にか繋がれていて。
「これから先何があっても、リックと一緒なら大丈夫」
「僕も、イリスがいるなら、どんな苦しくても乗り越えて行けると思う」
 誓うように言ったイリスとリックは微笑み合い、そっと寄り添いあった。


◆スイートアリッサムのような君へ
 領主の館にベルティルデ・バイエルを訪ねてきたヴァネッサ・バーネット。
 彼女は迎えに出たベルティルデにすぐに庭に案内され、紅茶と焼き菓子で歓迎された。
「お久しぶりです。忙しくしていると聞きましたが、お体のほうに変わりはありませんか? ベッドでもご用意いたしましょうか?」
「そんな大げさな。確かに忙しいけど、それはみんな同じ。それに、休む時間もちゃんと取ってるから大丈夫だよ。医者の不養生なんて笑われたくないからね」
「それならいいんですけど」
「今日はあんたに誕生日プレゼントを持ってきたんだ──と言っても、豪勢なものじゃないけどね」
 と、軽い口調で言ったヴァネッサは、口を綺麗な色のリボンで閉じた包みを差し出した。
 ベルティルデは目をまん丸にして包みを見つめる。
「誕生日プレゼント……わたくしにですか?」
「あんた以外に誰がいるんだい。遠慮するようなものじゃないから、気楽に受け取ってくれると嬉しいよ」
「ありがとうございます……!」
 ベルティルデは一変して破顔し、包みを受け取った。
 開けますね、と断ってからリボンをほどくと、中には押し花のしおりが数枚収まっていた。
「かわいいお花ですね! 本当にありがとうございます。大切に使います」
 しおりを抱きしめるようにして喜ぶベルティルデの笑顔に、ヴァネッサも自然と笑みが浮かぶ。
「いつかのダンスパーティで、誕生日には綺麗な花をと約束したからね」
「覚えていてくださったんですね。嬉しいです」
「スイートアリッサムっていうんだ」
 ベルティルデはしおりを見つめながら、花の名前を口の中で繰り返した。
 花はいろいろ見てきたが、知識は乏しかった。
「真っ白で、楚々としていて、でもどこか逞しくもある。この花は、あんたみたいだなって思ってさ」
「ヴァネッサさん、そんな……さすがに花に例えられるのは恥ずかしいです……」
「あはは、何か口説いてるみたいになっちゃったね。そういうんじゃないんだ。ただ──あんたと友人になれてよかった。それだけなんだ」
 少しの間、ベルティルデはぽかんとしてヴァネッサを見つめていた。
 まるで、彼女の言葉が胸に染み入るのをゆっくり待つかのように。
「ええ……ええ、本当にそうですね。わたくしも、ヴァネッサさんとお友達になれてよかった」
 噛みしめるように言うベルティルデを見て、ヴァネッサは心から別れを惜しんだ。
 彼女にとって、ベルティルデは貴族では初めての友人だった。医療術師として各地を巡ってきたが、それは医者もいないような僻地ばかりで、そもそも貴族に会うこと自体が稀であった。
 どんな人種かと付き合ってみると、自分にできることを懸命に探している姿に共感してしまった。
 たとえ育ちが違っても、逆にその違いを笑い合えてしまう関係に嬉しくなった。
 貴族だろうが平民だろうが『生』の前には皆等しい──医者としてのその信念に間違いはなかったと再確認させてくれた。
「あたしは、これからもあんたと友人でいたい。また会いたいって、心からそう思うよ」
「わたくしも、同じ思いです。お互いにどんな困難が待ち受けているかわかりませんが、ヴァネッサさんはここで、わたくしは箱船で役目を果たして、必ずまた会いましょう」
 守れない約束ではなく、きっと守られる約束と信じて。
 ふと、ベルティルデの目線が上がり何かを捉えた。
「見てください、虹ですよ」
 マテオ・テーペの頂に虹がかかっていた。
 誰かの魔法だろうか。
 再会の約束は叶うと、励まされているように感じた二人だった。


◆他愛ない話の中で
 ルース・ツィーグラーが休日のある日、彼女は庭でリュネ・モルとのんびり紅茶を飲んでいた。珍しい客である。
「水路掘削につきましては、大変お世話になりました。実は、当初工数を見積もった際には出航に間に合うか内心冷や汗ものでしたが、そのあたりは皆のがんばりのおかげで、ええ……」
「少し見に行ったけど、凄い熱気だったわね」
「よく仕事は段取り八分と申しますが、姫様を見習い、足繁く現場を訪れていたことが功を奏したようです」
「……」
「どうしましたか?」
「……べつに」
 ルースは造船所で自分が煙たがられていたことを知っている。
 そのため、今のリュネの発言が褒め言葉だったのか皮肉だったのか判断しかねたのだった。
 そんなルースの心の内を知ってか知らずか、リュネは微笑むと今度は働きアリのことを話し始めた。
「姫様はご存知でしょうか? 蟻さんの群は率先して働くものが二割、それにつられるのが六割、残りの二割は怠けて何もしないそうです」
 いったい何の話なのかとルースは訝し気にするものの、遮ることはしなかった。
「では、怠ける二割を除くとどうなるか? 残った蟻のうち二割が働かなくなるのだそうです」
 うまくできているものです、とため息交じりに言うリュネに、
「どこがよ」
 と、やや呆れるルース。
 しかし結局リュネが何を言いたいのか、ルースは理解できなかった。
 彼女の様子からそれを察したリュネは、紅茶を一口飲むと率直に言った。
「もっと肩の力を抜いたらどうです? 世界の救済、もちろん大事です。が、これで動くのはいいところ先鋭の数割。まずは今日生きる糧を得るという小目標を満たすことで、どうにか残すところの半分そこそこが動く。これが人間の正直なありさまではないでしょうか」
 ルースは視線をそらし、黙り込む。
 町の様子はベルティルデや他の人達から耳にしていた。
 箱船計画に期待しながら、何もせずただ見ているだけの人がけっこういるらしい。
 ルースの性格から、そういった人達のことはまるで理解できなかった。
「それと……もうすでにご承知のことかもしれませんが、たとえ洪水がおさまったとしても沈んでいた大地は何年も塩をかぶっておりますから、しばらくは使い物にならないと思います」
 ルースはハッと顔をあげた。
 どうやらそのことには思い至っていなかったようだ。
「導かれる方へお伝えいただければ」
「そうね……伝えておくわ。私だけが知らないことかもしれないけど」
 ルースの仕事は、暴走した水の魔力を調整することだ。移住地を見つけた後の活動については関与していない。
「お茶がなくなりそうね。おかわりを持ってこさせるわ」
「いえ、おかまいなく。そろそろお暇いたしますので」
「そう?」
「ええ。不肖リュネ・モル四十二歳独身、このたびの姫様のヒミツのハナゾノの探索も、そろそろお開きでございます」
「……何それ」
 不審者を見るような目つきになったルースに、リュネは楽し気に声を立てて笑った。
「それでは、今まで喜びも苦労も分かち合われてたお二人におかれましては、これからも末永くお幸……」
「私とベルはそんなんじゃないわよっ。変な世界に脚色しないでっ」
「いやいや、わざとですよ。その調子で少し楽にして行けば良いでしょう。無事のご帰還を祈っております」
 こうして、最後にまぜっかえしたリュネは、帰宅の支度を整えた。
 門まで見送りに出たルースは、別れ際にムスッとした表情で言った。
「あんたも、くたばるんじゃないわよ」
 もちろんです、とリュネは返し領主の館を後にした。


◆ハンバーグデート
 この日の夜の居酒屋兼飯処『真砂』には、特別席が設けられていた。
 仕切りで区切られた席に着いてるのは、ヴォルク・ガムザトハノフとジスレーヌ・メイユール。
 ヴォルクの招待だが、席は女将の好意で予約席として確保してもらっていた。
 真砂でヴォルク一押しのメニューと言えばハンバーグ。
 というわけで、ハンバーグデートということになった。
「……それで、理由はよくわからないのですが、とても大きなキャベツに育ちそうなのです」
「なるほど。ただの個体差なのかどうか、知りたいところだな」
「ええ。後は味ですね。大きくておいしければ文句なしです。そういえば、このメインディッシュにもキャベツが使われていますね」
 ハンバーグの添え物として、ブロッコリーの他に茹でたニンジンとキャベツが皿に乗っていた。
「キャベツはナマでもうまいよな。いろんな料理に使われてるし」
「ええ、そうなんです。私、畑のお手伝いをしているうちに、野菜をおいしくする方法をもっと知りたくなったのですが……」
 と、急にジスレーヌの声のトーンが落ちた。
 ヴォルクは食事の手を止めて、彼女の話に耳を傾ける。
「お父様は、私を箱船に乗せようとしているのです。私はここで皆さんと一緒にいたいのに……」
 このことでジスレーヌは長いこと父親の伯爵との関係がぎこちない。
「私が箱船に乗ったところで、何の役にも立たないと思いますのに」
「どうかな……」
 何の役にも立たないことはないだろう、とヴォルクは考える。
「ジスレーヌは魔法が得意だろ。そこに期待したんじゃないのか?」
「まだ上手に使いこなせていません……」
「それはこれからの修行しだいだろ。俺も、基礎からやり直している」
「修行……。そういえば、ヴォルク君は魔王になるために鍛えているんでしたね」
 ジスレーヌは、ヴォルクが目指す魔王がどういったものなのか、よく理解していなかった。
 ただ、背中にフェニックスが封印されているそうなので、炎に関わりのある魔王なのではと予想している。
「箱船に乗ってもここに残っても、鍛錬することに変わりはない。そうじゃないか? あとはジスレーヌの意志しだいだ」
 その言葉を聞いた瞬間、ジスレーヌは胸のつかえが取れたような気持ちになった。
「魔法が未熟であることを理由にしてはいけない……そういうことなんですね! 私、考え方を間違っていました。すべては自分がどうしたいかということなのに、あれこれと理由をつけて、お父様から逃げて……」
 家にあまりいないのも、父と正面から腹を据えて話し合うことから逃げたのだ、とジスレーヌは気づいた。
「ヴォルク君、ありがとう。あなたのおかげで自分の甘さに気づけました」
「俺は何も。すべては、君自身が悩んでたどり着いた答えだ」
「ふふっ。何だか今日のヴォルク君は大人ですね」
 ヴォルクは食事を再開する。
 彼は今日は聞き役に徹すると決めていた。
 ジスレーヌが感心したように、バーテン顔負けの聞き役ぶりであったが、この店には良い手本となる人が二人もいる。
 ある時は女将の仕事ぶりから、ある時は姉と慕う人物が酔っている横で皿洗いや食器の片付けなどをしている時に……。
 すっかり元気になったジスレーヌは、ほんのり頬を染めてヴォルクに言った。
「今度、家に遊びに来ませんか? 庭のお花は綺麗ですし……あ、釣りはしますか? 庭の池で一緒に釣りしませんか?」
 明らかなデートの誘いに──しかも、いきなり自宅だ──ヴォルクは胸の奥がギュッと熱くなるような不思議な高鳴りを感じた。
「……何だろう。君といると元気になるというか、楽しい気持ちが湧き出てくるというか」
 胸を押さえてこぼれたヴォルクの言葉に、ジスレーヌは「私もです」と微笑んだ。


◆言葉に想いを託して
「ヴォルクさん、ジスレーヌさん、『真砂』へようこそ。今日はお二人のために腕によりをかけてお料理しますね」
 港町にある居酒屋兼飯処『真砂』の女将である岩神あづまは、二人の客を迎えると予約席へ案内した。
 店の主な客層が仕事帰りの労働者であるため、デートに来た二人に余計な口出しをさせないよう、席の周りには仕切りを立てておいた。
 雰囲気を出すためテーブルには真新しいテーブルクロスをかけ、明かりは洒落たキャンドルで。
 二人とも、この演出は気に入った様子だ。
 ディナーのメインディッシュは特製ハンバーグ。
 楽しそうにおしゃべりしながら食事をする幼いカップルを、あづまは仕切りの隙間から微笑ましく見守っていた。
 あづまが立つカウンター席には、下宿人であるメリッサ・ガードナーが猪口片手にニヤニヤしていた。視線の先は仕切りの向こうの二人。若干羨ましさも混じった視線だ。
「デートかぁ、いいなぁ~。思えば私、普通のデートらしいことできてない……」
 切なくなってうなだれるメリッサ。
 しかし、いつもなら来るはずの女将のやさしい励ましが来ない。
 チラッと視線を向けると、あづまは仕切りの向こうを覗こうとする酔客を離れた席に誘導しているところだった。
「女将さん……」
「あら、ごめんなさいね」
 あづまは艶やかに微笑むと、メリッサの猪口に酒を注いだ。
「あの二人、うまくやってるのかな。ヴォルクくん、またあの癖を発揮してないといいけど」
「ふふっ、その時は修正に入らせていただくつもりです」
 と、お盆を掲げるあづまにメリッサは若干引いた。
 メリッサは猪口の中身を飲み干して気持ちを切り替えた。
「ねぇ、女将さん。女将さんはもう誰かと一緒に住む約束してる?」
「それは……どういう意味でしょうか?」
「障壁が狭くなったら、ここ、沈んじゃうでしょう? もし、戻ってこれるなら真砂がいいから」
 メリッサがどこから戻ってこれたらと言っているのか、あづまは知っていた。
 けれど、彼女がこれから臨もうとしてる冒険が命がけであることも知っている。
 それに、真砂を続けられるかどうかもわからない。
 それでも、この一生懸命な人に何か言葉を贈りたかった。
「メリッサさん、ここはあなたの家です。そして、あなたを待っている人がここにもいることを、忘れないでください」
「うん……ありがと。ちゃんと覚えておくね。お邪魔になるのは嫌だけど、まずは女将さんのところに帰る。ホッとできたら、ちゃんと引っ越し先考えるから」
「え……と、お邪魔、とは……?」
「だって女将さん、最近一段とキレイだからイイ人いるのかな~って」
 一瞬目を丸くした後、あづまは着物の袖で口元を隠して微笑んだ。
「さて、どうでしょうね?」
「あっ、ずるい。隠すなんてずるいよ~」
「ふふふっ」
「もうっ、邪魔しちゃ悪いなんて遠慮しないんだから。はい、これ!」
 ドンッ、とカウンターに包みを置くメリッサ。
 首を傾げて包みを見つめるあづまに、メリッサは宣言した。
「ずっと真砂に下宿したいから、前金みたいなもの!」
 あらあら、と中身を確認するあづま。
 種と原石が収まっていた。
 察しの良いあづまのことだから、この品を渡した意味をわかってしまうかもしれない──メリッサはそう思いながら、敬愛する女将を見ていた。
 あづまはただ微笑んで、
「前金、しっかりお預かりいたしました」
 それだけ言った。
 ああ、やっぱり間違っていなかった、とメリッサは思う。
 二年半前、ここを宿に決めたのはあづまの人柄に惹かれたからだった。
 あの時の選択は正解だった。ここに決めてよかった。
「メリッサさん、そんなに見つめてどうしました? 前金はもうお返ししませんよ」
「そ、そんなんじゃないよ!」
「あら、肴がもうありませんね。それともお酒の追加にします?」
「じゃあ、両方で」
 メリッサの注文に応え、あづまが奥へ取りに行こうとした時、再びほろ酔い客が仕切りの向こうへちょっかいをかけようとしていた。
 すかさずあづまは客に近寄り、やんわりと方向転換させる。
「ダメですよ。いいですか、ヴォルクさんは真剣なんです。もしお二人の邪魔をしたりからかうような真似をしたら、真砂の女将が許しませんよ」
 おっとりした微笑みの奥底に永久凍土のような冷たさを本能的に感じたほろ酔い客。
「ぼ、坊主によろしくな……へへっ」
 と、ぎこちない愛想笑いを浮かべてそそくさと仲間のもとへ戻っていった。
 見ていたメリッサがくすくす笑う。
「女将さん、背中に怖いもの背負ってたよ。ハンニャ……ヤシャ? ラセツ?」
「あらあら、どこでそんな名を覚えてきたのかしら」
 うふふ、と笑いながらあづまは奥から酒の追加と肴を運んできた。
 あづまもメリッサの隣に腰かけ少し酒に付き合い、二人が話す内容はお互いの想い人のこと。
 愚痴も惚気も全部白状しあった。
 そうするうちに、メリッサもいい感じに酔いが回って来て。
「おかみさんあいしてるー」
 唐突にぎゅっとあづまに抱き着いた。
 驚きつつもあづまはやはり微笑み、手にしていた猪口をカウンターに置いてから、そっとメリッサの背を叩いた。
「……ずっと傍にいたくても、私の想いだけでどうこうできるものじゃないし。レイザくんがどうしたいのかもよくわかんない……」
「殿方の考えてることなんて、永久にわからないものじゃないかしら。きっと、その逆もね。だから、好きな人の前では素直でいましょう」
 メリッサは抱き着く腕を強くした。

 それからメリッサの酔いも引けてきた頃、ヴォルクとジスレーヌのハンバーグデートが終わった。
「特製ハンバーグ、おいしかったです。ごちそうさまでした」
 礼を言うジスレーヌに「お粗末様です」と返したあづまは、ヴォルクとの様子をさっと観察した。
 どうやらうまくいったようだ。
 メリッサがこっそりとジスレーヌに囁く。
「ヴォルクくん、ちょくちょく無鉄砲なことするからよろしくね」
 ジスレーヌは、にっこりして頷いた。
 その後の真砂では、我慢しきれなくなったほろ酔い客の連中がヴォルクに絡み、先ほどのあづまとメリッサの抱擁に盛り上がり、いつも以上に賑やかな夜となったのだった。


◆造花の約束
 手土産として渡されたハーブティの多さに、ベルティルデは目を丸くした。
「こんなにたくさん、いいんですか?」
 持参したリベル・オウスは何てことないように頷く。
「飲めば身体が温まったり安眠できる効能がある。好きなように使ってくれ」
「ありがとうございます。大切に飲みます」
 ベルティルデは効能ごとに瓶詰めにされた茶葉を大事そうに見つめた。
「いつも本当に感謝しています。それで、お口に合えばいいのですが」
 と、ベルティルデはサンドイッチが収められたバスケットを差し出した。
「そんな気遣いは……いや、もらっておこう」
 ここに来るのは今日が最後だろうから、と心の中で続けるリベル。
 二人は領主の館の庭にある木陰のテーブルで、紅茶とお菓子を挟んで座っていた。
 リベルがハーブティや薬を持ってきたのはこれが初めてではない。
 彼がくれるものは、ベルティルデにとってどれもとても役立つものであった。
「箱船、乗るんだろ」
「ええ。姫様と一緒に」
「そうか。俺も乗るつもりだから、乗れたらそっちで再会だな。ダメならここでお別れ。つまり、次に会うのは箱船の上かお空の上ってことだ。せいぜい後者にならないよう、今のうちから頑張って有能っぷりをアピールするさ」
「箱船でお会いできたら嬉しいです。リベルさんの知識はきっと皆さんの助けになりますから」
「必要としてる奴のためなら使うさ」
 リベルは過去の経験から人に対して懐疑的なところがある。
 最初はベルティルデに対して試すような言動もあった。
「外に出たら、やりたいことがある」
「やりたいこと、ですか」
「ベルティルデにはないのか?」
 リベルは意外そうに聞き返す。
 そうですね……、と考え込むベルティルデに「おいおい」とリベルは呆れたような顔になった。
「まさか、外の世界でも『姫さんに仕えるだけの人生だった……』なんて言うのか?」
「……そうかもしれません。姫様にはお返ししきれないほどの恩がありますから」
「まぁ、あんたがそう決めてんならいいけどよ。それ、ちょっと危ういな。それとは別に何か一つくらい、ベルティルデのためだけの目的を持っておいたらどうだ?」
「わたくしのためだけの……」
 うーん、と再び考え込むベルティルデ。
「たとえば、いい男見つけて結婚とか……は、姫さんが口出ししてハードルがはね上がりそうだな」
 渋い表情になったリベルを見て、ベルティルデはくすくす笑う。
 きっと彼の言った通りで、その様子を想像したのだろう。
「リベルさんは目的があるんですよね? よかったらお聞かせ願えませんか?」
「俺か? そうだな……それじゃあ特別にベルティルデだけに聞かせよう」
 秘密を打ち明けてくれるのだ、とベルティルデは姿勢を正した。
「俺は、故郷に帰りたいんだ。とっくに海の底だけどな。でも、花の一輪でも手向けたら親共も安心するだろ」
 ベルティルデはただやさしく微笑んでいた。
 話しすぎたな、とリベルは少し照れたように視線をそらし、それから席を立った。
「そろそろ帰るよ。……そうだ、これを」
 と、鞄から造花を一輪取り出す。
「今までご愛顧いただきありがとうございました。……ほんの記念品だ。いらないなら、箱船の上で返してくれ。もし俺が乗ってなかったら……その時は、海にでも捨ててくれ」
 受け取った造花の花びらを、ベルティルデは愛し気に指先で撫でる。
「そんな寂しいことを言わないでください。きっとまた、箱船で会いましょう。この造花は、約束の印です」
 物好きだな、とリベルは苦笑した。


◆成功祈願マフィン
 リルダなら試食会に参加していると聞き、アウロラ・メルクリアスはさっそくそれが行われている集会所へ向かった。
 ドアを開けると、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。
 今日のテーマはお菓子なのかもしれない。
 匂いにつられるように調理室を目指し、開け放たれたドアから中を覗くと、女性達の中にリルダの姿を見つけた。
「リルダさん、こんにちは!」
 聞き覚えのある声と義足独特の足音に気づき、リルダが振り向く。
「あら、お久しぶり。試食に来たの?」
「ううん。試食会のことはここに来る途中で聞いたの。久しぶりにリルダさんの顔を見たくなって」
「ふふ、嬉しいこと言うわね。実は、やっとマフィンがうまくできたの。よかったら味見してみてくれる?」
「喜んで!」

 案内された席に座ったアウロラの前に、マフィンがたくさん乗った皿が置かれる。
 それからリルダはハーブティを用意した。
「たくさん作ったんだね」
「プレーンとハーブ入りの二種類だけなんだけど、材料の分量を間違えてしまったのよね……」
 それでバランスを取るために他の材料も増やしたところ、大量に作るはめになったのだという。
「リルダさんでも、そういうミスするんだね」
「私なんて失敗だらけよ。みんなに助けられて何とかやってるだけ。今日も少しでも進めておこうと思ったんだけど……」
 休日と言いながらもいつも通り紙面とにらめっこをしていたリルダだったが、試食会に訪れた人達に引っ張り出されたのである。
 アウロラは、リルダさんらしいと笑いながらプレーンマフィンに手を伸ばす。
「……うん、おいしいよ。リルダさんが作ったもの、初めて食べた気がする」
「そうだったかしら。うん……そうかもしれないわね。いつも畑だの何だので」
「あ……畑、最近は手伝えなくてごめんね。いろいろ忙しくてさ。今度、ちょっと大変な仕事があるんだよね」
 食べる手を止めて、すまなそうに言うアウロラ。
 大丈夫よ、とリルダは微笑みを返す。
「アウロラさん達のこと、だいたいは聞いてるわ。訓練もずっとがんばってたって」
「そうだったんだ」
「こっちのことは気にしないで。本当に大変なことをしに行ってくれるんだから、それに集中して、それできっと帰ってきてちょうだいね」
 アウロラ達の帰還を心から願うリルダは、そうだ、と二種類のマフィンを手に取り、目を閉じて祈った。
「無事に成し遂げられますように。みんな、帰って来れますように。……さあ、願いをこめたこれを食べて、がんばって」
「ありがとう。精一杯、できることをやってくるね。ここのことはお願いね」
「ええ。任せて」
 二十歳ほども年の離れた二人だが、自分でやると決めたことへの意志の固さは同じだった。
 それからは重い話はあえてせず、他愛のない話題で穏やかな時間を過ごした。
 その中には、この試食会に貴族がいることについての話もあった。
 双方の溝は少しずつ埋まりつつある。
 話題は尽きないが、そろそろ試食会もお開きの時間だ。
 リルダはまだ皿に山になっているマフィンを清潔で大きな布に包み、アウロラに持たせた。
「お友達と分けてもいいし。おいしいっていうお墨付きはいただけたからね」
「ありがたくちょうだいするね」
 アウロラは甘い香りと一緒に帰路についた。


◆この町並みを
 ある休日の昼下がり、領主の館の庭に二人分の笑い声があった。
「──というわけで、ただでさえ作り過ぎたフィッシュサンドに加えて、チーズと果物が追加されたってわけ。どっちも日持ちするけど、ベルティルデちゃんが消化に付き合ってくれて助かったよ」
「ふふふっ。それだけコタロウさんの働きを、港町の人は見ていたんですよ」
 二人のテーブルの真ん中にある皿には、バゲットに魚のフライと野菜を挟んだフィッシュサンドと、切り分けられたチーズにフルーツが乗っていた。
 フィッシュサンドはコタロウ・サンフィールドが港町のパン屋で買ったバゲットに具材を挟んだ手作りだ。
 彼はこのフィッシュサンドだけを持ってマテオ・テーペを一巡りしようと家を出たのだが、市場に出たとたんチーズ等の乳製品を売りに来ていた酪農家の主人や、果物も育てている野菜農家に捕まり、これらの品を持たされたのだ。
 この市場は、もうじきすべて移転される。
 箱船出航時にここは海に沈むからだ。
 店の主人も客も、みんなそれをわかっていたが、誰も寂しさは表に出さない。
 だからコタロウも、慌てはしたがありがたく笑顔で受け取ったのだった。
「わたくしも、時々おまけしてくれることがありますね」
「みんな気前良すぎだよね」
 市場の次は牧場のほうへ行った。
 ここでもコタロウは捕まり、なぜか子牛の出産に立ち会うことになった。
 最近は、あちこちで子牛や子馬が生まれているそうだ。
 そして、この牧場も障壁の外側になってしまう。
 家畜のための場所も急ぎ確保しているらしい。
「子牛、かわいいでしょうね」
「うん……何だか体が震えるような、不思議な感動だった。少し泣いちゃったよ」
「港町でも、何人かの方が子供を産んだと聞きました。無事に大きくなってほしいものです」
 それからコタロウは造船所を過ぎて魔法学校のほうへ歩みを進めていた。
 あの学校も水没するため、書物などの貴重品が運び出されている。
 そしてその途中でお腹が空いてきたのでお弁当にしようと思って初めて気づいたのが、ちょっと量が多くないか、ということだった。
 近くに領主の館が見えていたため、ベルティルデに声をかけてみたという次第だ。
「作ってる時は全然気づかなかったんだよなぁ」
「ふふふっ。いつか見せてくださった船の模型は、あんなに精密でしたのに」
「ホントだよね。我ながら不思議」
「でも、おかげでご相伴に預かることができました。とてもおいしいですよ」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
 ここに来るまでに見て回ってきた話をするコタロウは、あえて明るく話していた。
 食事の場に似合わないというのもあるし、寂しいのはコタロウだけではないはずだからだ。
 市場も、牧場も、これから見に行く予定の魔法学校も、マテオ・テーペに広がる森の大半も、みんな海の中になってしまう。
 自分は箱船に乗るつもりでいるが、残される人達はなくなってしまったものをすぐそこに感じながら生きていかなくてはならない。
 考えただけで胸が詰まる。
 ここを離れる前に、世話になった人達にせめて何か恩返しをしていきたい。
「コタロウさん、そろそろスコーンが焼けると思うんです。食べていきませんか?」
 持ってきますね、とベルティルデはいったん席を外した。
 そして、結局コタロウは、市場でもらったチーズと果物に加え、スコーンもお土産にと持たされたのだった。

 



タイトルの前に
■がついている物語は、鈴鹿高丸
●がついている物語は、川岸満里亜
◆がついている物語は、冷泉みのり
が担当いたしました。

マスターより
鈴鹿です。
休日シナリオへの参加ありがとうございました。
今回もお二人分を担当させていただきました。
初めて書かせていただいた方もいましたが、かなり楽しんで書けました。
残りもあとわずかですが、引き続きよろしくお願いします。

いつもありがとうございます、川岸です。
今回はご指名いただいた分と、サイド関係のお話を担当させていただきました。
皆様の休日の姿を楽しく書かせていただき、また読ませてもいただきました。
私たちが描かせていただけるのは、あとほんの少しとなります。
描ききれなかった分につきましては、皆様自身で、よろしければPCの未来を文章に残していただけましたら嬉しいです。是非読みたいです。

こんにちは、冷泉です。
三回目の休日シナリオへのご参加&ご指名ありがとうございました。
特にご指名のない方も一部担当しました。
さて、メインのほうは残すところあと一回となりました。
箱船に乗る人も、マテオ・テーペに残る人も、悔いなく過ごしていただければと思います。
どうぞよろしくお願いします。