メインシナリオ/グランド第4回
『あなたのための希望のうた 第4話』



◆第一章 明日の食べ物を楽しくつくろう~その1
 荒れ畑の復興を始めてから、参加者はちらほらと増えていった。
 動機は人それぞれだが、個人で、仲間同士で、はたまた裏路地が似合いそうな者まで、多種多様な人が少しずつ参加を申し出ている。
 港町のまとめ役であるリルダ・サラインとしてはとても嬉しいことだ。その分の事務仕事が増えたとしても。
 彼らに割り振られる畑はトモシ・ファーロの提言により、障壁の縮小を踏まえできるだけ中心部寄りで、荒れ具合が比較的小さなものが選ばれた。また、初心者がほとんどということもあり、耕す面積も無理のない広さにしてある。慣れたら広げていく方針だ。
 ところである日、事務仕事の内の一部をピア・グレイアムが引き受けてくれることになった。
「リルダさん、ちゃんと休んでます? これくらいなら私でもできますから、任せてくださいね」
 と、口調はやわらかいながらも有無を言わさず引き取ったのである。
 こうして彼女は、参加者の名簿と所有した畑の位置、進捗状況の管理を担当することになった。
 リルダは苦笑していたが、内心ではありがたく思っていた。
 そしてある程度参加者がまとまったところで、トモシとイヴェット・クロフォードも加わって、初心者のための入門講座が行われることになった。

 トモシが占いで選んだ吉日に、ある荒れ畑に彼らは集まった。
「今日もいい天気で、絶好の農作業日和だ」
 講座はトモシのこんな挨拶から始まった。
「……で、まずは畑の土を綺麗にしなくちゃならないんだ。簡単に言うと、草むしりと小石とかを取り除くことだね。土の中に石があると、そこにニンジンでも植えた日には、曲がりくねってひねくれん坊のものができちゃうからね」
 何人かがその例に頷いた。奇妙な形の根菜類を見たことがあるのだろう。
「シャベルとかは借りてきたから、持ってない人はここから使ってね」
 と、必要そうな道具をそろえた道具置場を示す。
 これらは、避難した農家のものがほとんどだ。
「抜いた雑草は後でまとめて持ってきてくださいね。灰にして畑の肥料にしますので」
 ピアが続けた。
 トモシは全員が最初の作業を理解したことがわかると、さっそく作業開始を告げた。
「自分の畑がどこにあるかはわかるね? それじゃ、始めよう」

 一度店に戻るというピアを見送ったイヴェットは、各畑の見回りに出た。
 うまく雑草の根っこまで除去できない人にコツを教えたり、きちんと土を綺麗にする前に先の段階へ進もうとする人に土を整えることの重要性を教えたり……。
「最初は疲れやすいですから、こまめに水を飲んだりして休んでくださいね」
 と、がんばりすぎている人に休憩を勧めたり。
 後でピアが持ってくるはずの差し入れが届く頃合いも、忘れずに伝えた。
 ふだんこなしている仕事を教えるというのは、イヴェットにとって貴重な経験になっていた。
 そして、自分が見て回る分を終えて最初の畑に戻って来ると、その畑の担当になったグループとトモシが賑やかに笑いあっていた。
 ここを借りたのは気の合う者同士で組んだグループだった。
 その中の一人が畑から出てきた虫に驚き、からかわれていたようだった。
 イヴェットもつられて微笑みながら彼らに近づく。
「順調そうですね」
「ああ、おかえり。イヴェットさんが帰ってきたってことは、そろそろ休憩にしたほうがいいかな」
 人工太陽の位置を見ながらトモシが言った時、遠くからピアの声が響いてきた。
 差し入れを持ってくると言っていたのでそれだろうと思い声のほうを向くと、他にリルダと警備隊員一人の姿も見えた。
 その警備隊員は、先日狼退治を手伝ってくれたジェンナーロであった。
 三人はそれぞれ大きなバスケットを抱えている。
「お待たせしましたー! 皆さん、休憩にしましょう!」
 待ってました、と草むしりをしていたグループの人達がピアの周りに集まる。
「軽く食べられるように、サンドイッチを多めに持ってきました。準備は私達でしますので、手を綺麗にしておいてくださいね」
 そう言ったピアは、リルダやジェンナーロと協力しててきぱきと食事の準備を進める。
 その間、草むしりをしていた人達は言われた通り、手を洗っておいた。
 ここにいた人達の手洗いが終わる頃には、周辺の畑にいた人達も集まり、おいしそうなサンドイッチやいろいろな種類の具材を詰めた蒸しパンに目を輝かせていた。
 今日の人達がそろったのを確認したトモシの音頭で食事が始まった。
 各人、好きなものを選び、好きな場所でくつろいだ。
 今の状況を忘れれば、とてものどかな光景だ。
 甘めの蒸しパンを食べながら、リルダはふぅとため息を吐いた。
 そこに、数種類のパンの包みを持ったトモシがやって来た。
「隣、いい?」
「どうぞ」
 礼を言ってトモシが腰を下ろすと、リルダは「お疲れ様」と彼を労った。
「いやいや、かえって楽しいくらいだよ」
「よかった。私も手伝えそうな日には来るわね」
「ありがとう。でも、無理はダメだよ。最近立て込んでるみたいだし。その……俺はリルダさんの代わりはできないけど、手伝えることなら手伝うし」
「おかげさまで、収穫量は上がりそうね。箱船が言った後のこともあるしね」
 箱船という言葉で、トモシは聞きたいことがあったことを思い出した。
「その箱船なんだけど、乗って行く人は決まってるの? 調査もあるし、いろいろな方面から有能な人が行くのかなとは思うけど」
「ある程度は決まってるらしいわ。ルース姫は当然として、各属性の魔術師や船のメンテナンスのために造船所からも行くみたいだし」
 その人達がいなくなったら、ここはどうなるのか。
 あまり良い想像はできなかったが、今から不安にかられても仕方がないとトモシは考えることを中断した。
「移住先が見つかると信じて待つしかないわね。そのためにも、何があってもいいようにしっかり蓄えておかないとね」
 頼りにしてるわ、と微笑むリルダの顔をトモシはじっと見つめた。
「リルダさん、相談事でも愚痴でも何でも聞くから、変な遠慮はナシだよ」
「ありがとう。大丈夫よ、こんな程度じゃへこたれないから」
 予想通りの返事に、トモシは思わず苦笑した。

 その日は草むしりで一日が終わった。
 まだ数日はこの作業が続くはずだ。
 参加者にはあらかじめ作業のおおよその日程を伝えてあるが、できれば誰も脱落することなくこの先も続けてほしいと、リルダ達は願っている。
 帰りも荷物運びを手伝ったジェンナーロがピアに言った。
「あの後、狼の被害報告は聞かないし、みんなの対策がうまくいってるようで良かったよ。また何か問題が起こったら呼んでよ。できる限り力になるから」
「ありがとうございます。バートさんにもお礼を言っておいてください。それと、事件に関係なくても、よかったらうちのパン屋に来てくださいね!」
「行く行く! 今日のパン、すごくうまかったよ。ごちそうさん」
 パン屋『ベーカリー・サニー』に荷物を置き、詰所に戻っていくジェンナーロの背を、ピアは見えなくなるまで見送った。

◆第二章 明日を蝕まれないために~昼
 アンセル・アリンガムを代表に結成された自警団の、最初の見回りの日が来た。
 これには、アンセルと彼を慕う青年ルスタン・チチュキンの他、岩神あづまプティ・シナバーローズ、他数名が参加した。また、リルダも見送りのために顔を出している。
 午前九時の集会所前に集まった彼らは日勤組だ。
 午前中のルートについて説明を終えたアンセルが一同を見渡す。
 どの顔も、新しい仕事へのやる気に満ちていた。
 アンセルは洋服姿のあづまを目に留めると、意外そうな顔をした後にっこりと微笑んだ。
 あづまが営む居酒屋兼飯処『真砂』で着ている和服という東方の国の服装では、動きにくいと判断したのだろう。
 見慣れないせいか、馴染み深い洋服もあづまが着れば新鮮に見えた。
「先日の顔合わせの時にも言ったが、私達の目的は治安の回復だ。決して人々を威圧することではないことを忘れるな。それでは、行こうか」
「みんな、気を付けてね」
 リルダに見送られ、アンセルを先頭に彼らは出発した。
 今日の見回りルートは、先の顔合わせの時に決めた。
 あづまの提案を元に詰めていったものだ。
 途中行き交う人と挨拶を交わしながら、彼らは裏通りへと入っていった。
 突然訪問した一行を、裏通りの住人達は胡乱気に眺めている。
 中にはニヤニヤしながらからかってくる者もいたが、アンセルが取り合わなかったため続くメンバーも過剰な反応は控えた。
 何かと騒がしいルスタンは、必死に自制している様子だったが。
 彼らが向かっているのは、障壁際である。
 これはアンセルの提案で、彼は先日さらに狭まったそこがどうなっているのか確かめたいと言ったのだ。
 そしてしばらく歩いた先で見えたのは、障壁際に山と積まれた木箱やら材木片やらであった。
 まるで、狭まる障壁への抵抗のようだった。
 一行の後ろから気の抜けた笑い声がした。
「へへっ。これ以上俺らの領地をわたせるかってんだ」
 安酒でも飲んだのか、酔った男がいた。
 男はヘラヘラ笑っていたかと思うと、突如、眉を吊り上げて怒鳴り出す。
「俺達がいったい何をした! いったい何が、どこのどいつが世界をこんなにしちまったんだ! 返せ! 俺の生活を返せッ!」
 男はたまたま近くにいたプティに掴みかかる。
「なぁ、俺は魚を採りすぎたか? それとも、海辺でションベンしたのが気に障ったか? カカァに隠れて酒飲んだのが、そんなにいけなかったか!?」
 ガクガクと揺さぶられながら、プティは男の嘆きを呆然と受け止めていた。
 代わりにルスタンが止めに入ってくる。
「おっさん、落ち着けよ。わかってる、アンタの気持ちはみんなわかってるから」
「ううっ……。カカァがどこにもいねぇんだ。これ以上ここが小さくなっちまったら、カカァが見つけらんねぇよ……」
 彼の妻は、大洪水で行方不明になったのだろう。
 男は泣きながらずるずるとへたり込んだ。
 背中をさするルスタンの傍らにプティも膝を着き、そっと声をかけた。
「俺も、わかるよ……。理不尽なことばかりだよな」
「これ以上、魔術師を殺さないでくれ……。騎士団でも誰でもいいから、頼むよォ」
 巷では騎士団への信頼が揺らいでいるという噂もあるが、この男にとってはそうではないようだ。
 と、そこに別の声が割り込んできた。
「あんた、まだ騎士団なんてあてにしてるのかい? ヒヒッ、呑気だねぇ」
 杖をつき、腰の曲がった年取った女がニタニタ笑っていた。
 どういう意味だ、とプティが彼女に目を向ける。
「アタシは、魔術師を殺したのは騎士団の誰かだと思うってことさ。殺した理由なんて知らないよ。殺された魔術師とも知り合いでも何でもないしね。ククッ……あんた達自警団が騎士団に取って代わる日はいつかねェ」
「私達はあくまで騎士団の穴を埋めるために行動しているだけだ。それに、騎士団への信頼はまだまだ厚いだろう」
 おもしろがる女に、アンセルがピシャリと言った。
「ヒヒッ、まあどっちでもいいさ。ここが朽ちるのが先かアタシがくたばるのが先か……」
 何が楽しいのか、女はヒヒヒッと笑った。
「あんたは騎士団は信用ならないって思ってるのか?」
「そうは言ってないさ、お若いの」
 ニタニタ笑いのまま、女はプティに答える。
「警備隊はよくやってると思うよ。ただ、あいつらをあてにして生きるのはどうかという話さ。大きすぎる期待は、外れた時にゃ倍の憎しみにもなるからねぇ」
 騎士団への信頼感の低下という噂の正体は、こういうことなのかもしれない。
 町の人達が安心して暮らせるように動く彼らに、人々はいつの間にかいろいろなものを背負わせていたのだろう。
 女は、嘆く男を引きずるようにして自警団の前から去って行った。
 それからアンセル達は、バリケードのように積まれた廃材を崩して道の脇に寄せると、再び見回りを始めた。
 空き家、空き倉庫を中心に不審な点はないか確認していった。
 一通り終わると、あづまが店を開けてお茶を出した。
「今後も定期的に続けていくんですよね?」
「ああ。警備隊と連携しながらな」
 お茶菓子も差し出しながらあづまがアンセルに問うと、当然といった返事がきた。
 今日のアンセルはいつも通りの彼で、穏やかで落ち着いている。
「女将さんは店もあるし、あまり無理をしないようにな。疲れたら遠慮なく休んでくれ」
「お気遣いありがとうございます。その時はそうさせてもらいますね」
 アンセルが無茶しそうな時に止めるためにも、あづまは休む気はなかった。
 彼が伯爵へ向ける不信感は、私怨によるものではないかと考えていたからだ。
 その恨みが正当なものなのか、誤解によるものなのか、そこまではまだわからないけれど。
 その時、急にルスタンが大きな声をあげた。
「プティ、そんな堅苦しいこと言うなよ! いいじゃねぇか、いつか俺達がここらを仕切るってことでさァ!」
「あんたは物事を単純に捉えすぎだ」
 どうやらルスタンとプティが衝突しているようだ。
「あんなお高く留まった伯爵連中より、アンセルさんのほうがよっぽど頼りになるぜ!」
「そんなふうに決めつけられるほど、貴族達のこと知ってるのか?」
「うぐっ……。け、けど、あいつら毎日仕事もしねぇで遊んでばっかって話じゃねぇか」
「毎日プラプラしてんのは港町にもいるだろ……。それに、造船所の所長は男爵だし、夜勤のステラも貴族だ」
「うぬぅ……ああ言えばこう言いやがって」
「事実だし」
 言い負かされてふくれるルスタンに、周りから笑い声があがった。
「ああっ、アンセルさんまで笑わないでくださいよっ」
「いや、すまない。だが、プティの言うことはもっともだ。私を推してくれるのは嬉しいが、他もきちんと見るようにな」
「……わかりましたよ」
 不貞腐れながらも、アンセルには素直なルスタンだった。

☆  ☆  ☆



 町に風が吹くようになってから人々の体調はみるみる快方に向かい、野外病院もいったん引き払うことになった。
 ヴァネッサ・バーネットはその後も患者の家を定期的に訪問し、体調に変化はないか確かめている。
 その結果を町医者のビルのところへ持ち寄り、次の一手を二人で考えていた。
 テーマは『予防』である。
 薬や通院の必要がなくなった人でも、こんな閉鎖状況ではまたいつ具合を悪くするかわからない。
 体調を崩す要因などいくらでもあるのだ。
 その焦点は、箱船出航後にも及んでいる。
 箱船がここを出て行った後、ここはどんなふうになると予測されているのか。
 一番正確に予測できているのはアシル・メイユール伯爵だろうと思ったヴァネッサは、この長期にわたる予防計画をより精密にするために領主の館を訪れた。
 ビルにも同行を願ったが、予約の患者がいる都合でヴァネッサ一人での訪問だ。
 本来なら代理の者が面会に出てくるところだが、先日野外病院でルースが世話になったことが聞き届いていたのか、アシルが直接会うと執事に言われ、ヴァネッサは応接室に通された。
 それほど待たされることなくアシルは部屋に姿を見せた。
 彼はすぐにルースを診てくれたことへの礼を言った。
「特別礼を言われることじゃない。患者を診るのは医者の務めだからね」
 ヴァネッサはそう応じると、今回の集団病についてのレポートをテーブルに置いた。
 アシルが目を通すそこにまとめられていたのは、今回の症例は『空気の入れ替え不足』が主要因であったこと、しかし、日照・栄養・精神的高揚など不足しているものは無数にあり、再発の可能性もあることなどだった。
 続けて、そうならないために起こり得る病気の予測・予防のプランの考案を進めることの必要性が書かれていた。
「なるほど、病気の予防ですか」
 アシルにとって、これは新しい視点だったようだ。
 大洪水前から病気は当たり前にそこにあるものだったが、それは病気に罹ったらどうにかするものであった。罹る前からあれこれ心配するのは、意味があるとは思われていなかったのだ。
 そのことは、ビルや他の町医者、患者達の会話からもヴァネッサは感じていた。
 最後まで読み終えたアシルは、
「わかりました。このプラン、進めましょう。あなたが中心になって詰めて行ってくれるのですよね?」
「そのつもり」
「よろしくお願いします。定期的に経過を教えていただけますか?」
「それはもちろん。それで、その案をより具体的にするために聞きたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
「箱船に乗せる人員の内訳だ。魔術師もいなくなるんだろう。そうなると、障壁の維持やら何やら変化があるはずだ。その変化は、人々の健康問題に無関係ではいられないだろうからね」
「そうですね……魔術師ですが、船に乗っていただく人の属性に偏りは持たせないつもりでいます。何が起こるかわかりませんから。彼らはとても重要な使命を背負って行くわけですから、優れた使い手を選びますが、ここにも頼りになる魔術師は残さなくてはなりません」
「比重は箱船で?」
「そのつもりです。学生も候補に入れる予定です。他は各技術者ですね。船大工、航海士……医者も必要です」
 もう乗船が決まっている人もいるが、まだ選考中であることをアシルは付け足した。
「そうか……ところで、あんたちょっと疲れてないかい?」
 話が一段落着くと、ヴァネッサの世話焼きな部分が顔を出し始めた。
「いいえ、たいしたことありませんよ。そういえば、魔法研究所のジョージ所長から連絡があったのですが……」
 あからさまに話題を変えたアシルにヴァネッサの眉間がわずかに寄るが、彼は気づかないふりをして続けた。
「二週間後くらいかな……人工月の打ち上げ実験ができるそうですよ。夜の警備の効率化が目的なのですが、それ以外にも、少しは夜の楽しみが増えるかもしれませんね」
 あなたも実験の成功を祈っていてくださいね、とアシルは言った。
 彼自身も月があがることを期待しているのが、はっきりと見て取れた。

 その頃、水の神殿ではエリス・アップルトンが神殿長のナディア・タスカの指導の下、障壁の維持に力を注いでいた。
 以前のように自身の疲れに気づかないということもなく、また注ぐ魔力が大きかったり小さかったりというブレも少なくなり、エリスは確実に実力をつけていた。
「そろそろ休みましょうか。ずい分上手になりましたね」
 エリスは長い前髪で隠された目元を緩ませた。
 ナディアは外で護衛任務についていたバート・カスタルにも声をかけて休憩室へ入った。
 神殿は以前は中までは警備隊の者を入れていなかったが、例の事件以降、外と内とに警護の者を置いていた。
 ルースには近衛隊がいるので、警備隊は主にナディアについていた。
 三人で休憩室でハーブティを飲んでいると、くたびれた様子のジョージとどことなく落ち着かない様子のDrカーモネーギーが入ってきた。
 二人は今日も障壁維持に使われている魔法具の研究に来ている。
 はじめの内は研究の進み具合などを話していたのだが、話題はいつしか箱船計画のほうに移っていた。
「箱船にも魔法具が持ち込まれたりするのでしょうか?」
「ええ。船の動力として積み込まれています」
 疑問に答えてくれたナディアに、エリスは「やはり」と頷いた。
「他にも、嵐などの災害から船を守る障壁の働きをする魔法具も開発中と聞きました」
「あ、そうですよね。外はきちんと天候があるんですよね」
 海の底に沈んでから約二年、天候は一定化したため雨も嵐もなくなった。暦が夏を示しても何の変化もないことに始めは不安や寂しさを覚えたが、箱船計画が大詰めになってくるにつれ忘れがちになっていた。
「搭乗員ですが、ルース姫が乗るのは当然でしょうね。ベルティルデさんもお世話役ですから同行するでしょう」
 ナディアのこの意見に反対する人はいなかった。
「ルース姫は……」
 言いかけて、ふとナディアはバートを見て口をつぐんだ。
 そのまま考え込んでしまった彼女を、エリスが気にかけた。
「ナディアさん、どうかしましたか?」
「……あ、いえ……もしかしたら彼女は水の継承者なのかもしれないと思いまして」
「水の継承者……ですか?」
 ピンとこないのか、首を傾げるエリス。
 私も詳しくは知らないのですが、と前置きしてナディアは話し出した。
「各属性ごとに一人の継承者がいて、類稀な力を持つと聞いています。航海の鍵は姫にあるという話ですし、もしかしたらと思ったのです」
「あの……水の継承者がいると、陸地が見つけやすくなるのですか……?」
 言っていて、おかしいなとエリスも思っていた。陸地を見つけるなら、地属性のほうがふさわしいだろうと。
 ナディアもそのことに今気が付いたように顔をあげる。
 それから急に深刻な表情になって黙り込んだ。
「属性魔力には、吹き溜まりがあるそうです。もしや姫はそこを探して……? でも、見つけたところでこの大洪水を静めるのに、どれほど時間がかかるか……」
 ナディアの呟きに、エリスもまさかと目を見開いた。
 ジョージとDrカーモネーギーを見やると、二人も何とも言えない顔をして唸っている。
 箱船の目的は移住先を見つけることではないかもしれない──そんなこと、考えたくもないし、口にしたくもないことだった。
 重い沈黙が休憩室を包み込んだが、その空気を払ったのはDrカーモネーギーだった。
「ま、吾輩はいつも通りの仕事をするだけネギ!」
 そうじゃな、とジョージも頷く。
「魔法具の改良が成功すれば、水の魔術師が減って障壁維持が難しくなるだろうここを救うことになるぞ!」
「今日は、魔法具の設計に無駄がないか調べていたんでしたっけ?」
 エリスの問いに力強く頷くDrカーモネーギー
「無駄を省くことが効率化に繋がるネギ! そのためにも、あの魔法具の構造を隅々まで把握……」
 不意に、Drカーモネーギーの勢いがしぼんだ。
 いつもあまり顔色が良いとは言えないのだが、それ以上に悪いように見える。
「どうしたのじゃ」
 と、聞くジョージに、Drカーモネーギーはやや緊張した声で尋ねた。
「この水の神殿が建てられた理由は知っているネギか?」
 ジョージはナディアを見た。彼女は困り顔で首を振る。
「私は神殿長の座につかせていただいておりますが、ほとんど名前だけと言ってもいいのです。あの大洪水で亡くなった前神殿長の下で仕事をしつつ、まだまだ修行中の若輩者でしたから。前神殿長なら、あなたの質問に答えることもできたでしょうけれど……」
「わしもその辺の経緯は知らんでのぅ。が……これはわしの勝手な予測じゃが、かつてのウォテュラ王国が行った魔導武器の実験と関係があるのかもしれん」
「そんな実験が……」
 世界を変えるほどの威力を持つ兵器とはどんなものか、とエリスは背筋を寒くした。
 Drカーモネーギーの質問は続く。
「では、吾輩より前に、神殿のことや魔法具について調べようとした者は?」
「私が知る限りでは、いませんね。協力できる資料もなくて、ご苦労をおかけします」
「そ、そういう意味で聞いたんじゃないネギ。……何故この場所に魔力増幅装置と水の神殿があるのか、設計図を見ているうちに疑問に思ったネギ。こんな大それた魔法具がある理由……まるで、何かを封じ込めているように思えたネギ。さっき、装置の無駄を省くと言ったネギが、その目的は障壁の維持に特化できるように調整することネギ。でも、もし何かを封じ込めているなら……」
 下手にいじるととんでもないことになりかねない。
「学校で、公国の歴史のことも少しやりましたが、兵器の実験とか、そんなことは一度も……」
 図書室によくいたエリスだが、このことに関係する書物を見たことはなかった。
「もし、もしも、殺された魔術師がここの魔法具や神殿の調査をしていたことが原因なら……」
「か、考え過ぎですよ! ねぇ、皆さん!」
 エリスが慌てて言うと、ナディアとジョージも同意を示すように頷いた。
 だが、バートだけは何かを考えているように口を閉ざしている。
「バートさん……?」
 エリスの呼びかけに彼はハッと顔をあげた。そして、バツが悪そうに苦笑する。
「ごめん、聞いてなかった。何の話?」
「いえ、いいんです」
 気まずい沈黙に包まれかけたのを、ナディアが払拭する。
「さ、難しい話は終わりにして、明るい話をしましょう。私、前々から思っていたのですが、エリスさんもドクターも、もっとオシャレしません? 髪を綺麗に梳いてかわいいピンで留めたり、お洋服も……」
 ナディアの話を半ば聞き流しながら、Drカーモネーギーも、考え過ぎだと思おうとしていた。

◆第三章 明日の食べ物を楽しくつくろう~その2
 荒れ畑復興計画が始まってから五日が過ぎた。
 お店もあるピアは、毎日とはいかないが手伝える日には差し入れを持って手伝いに行っている。
 畑は草むしりや小石などの除去も終わり、そろそろ土作りも完了する頃だろう。
 今日は午後からお店を一時閉めて様子を見に行くつもりだ。
「サンドイッチと蒸しパンは好評ですから作るとして……中身をどうしましょうか。濃い目の味のものと甘めのものと……あっさり塩味で食感を重視というのもありですね……」
 口に出して考えをまとめていると、店の扉が開いた。
 いらっしゃいませ、と笑顔で迎えたピアの目に映ったのは、アレンジの効く蒸しパンの作り方を教えてくれたシャオ・ジーランだった。
「あら、お久しぶりですね。もうじきロールパンが焼きあがりますよ」
「それはちょうどいい時に来ました。どうりでお腹に響く匂いがするなと……」
「ふふふっ。一人でもそう言ってくださるお客様がいると、やる気が出ますねっ」
「きっと他にもそう思っている人がたくさんいますよ。ところで、ちらっと小耳に挟んだのですが、近々集まりがあるそうですね?」
「集まり……?」
 思い当たる節はいくつかあるが、どれだろうかと、ピアを首を傾げた。
 畑でシャオを見かけたことはないので、そこではないだろう。
 となると、伯爵のところか。けれど、ピアに出席の予定はない。となると……。
「お茶会と聞きましたが……間違ってました?」
 やっぱりそうだ、あれだろう、とピアは納得した。
「いいえ、お茶会で合ってますよ。耳が早いですね」
 シャオはただ笑顔を返す。
 まさか、苦労して酒を求めて歩き回り、ようやくありついた薄い酒をがぶ飲みして二日酔いでぼんやりしていた時、どこぞの誰かが話していたのが聞こえてきたのだ、とは言えなかった。
 酒類が貴重なものになった今、洪水前のように手に入れることは難しくなっている。
 そんな中、このことがピアに知れたらどんな目を向けられることか。
「そうそう、お土産があるんでした。──ガレットというのをご存知ですか?」
「えーと、ちゃんと知ってるわけではありませんが、確か薄く焼いた生地にクリームや果物を乗せて……」
「ええ、さすがですね。他に干し肉と卵でもおいしいですよ」
「そういうのも有りなんですね! ……シャオさん、付き合ってくれますか?」
 パン職人の顔になったピアの頼みを、シャオは快く引き受けた。
「そのお茶会でお披露目しましょう。できれば自分も、皆さんの反応を見てみたいものですが……」
 窺うようにチラッとピアを見ると、彼女はにっこりして頷いた。
「お茶会の日がわかったらお教えしますので、一緒に行きましょうね!」
 こうして、畑に行く時間までガレット作りに勤しむのであった。

☆  ☆  ☆



 毎日欠かさず畑仕事の手伝いに来るジスレーヌに、イヴェットはご褒美をあげた。
 先日退治した狼の毛皮で作った帽子だ。
 装飾としてつけられたリボンが、かわいいアクセントになっている。
「どうですか? 似合いますか?」
 さっそく帽子をかぶったジスレーヌは、嬉しさに頬を紅潮させてくるりと回る。
「ええ、よく似合ってますよ」
「えへへっ、あったかいです」
 笑う少女に、イヴェットの口元も緩んだ。
 土づくりの頃になると、前に家畜の糞を分けてくれた畜産農家も顔を出し、また糞を分けてくれた。
 リルダも粉々にした貝殻を運んで来てくれたので、イヴェットとジスレーヌは丁寧に土と混ぜ合わせていった。
 この畑の持ち主になった一家はイヴェットの教えを熱心に聞き、積極的に働いていた。
 イヴェットは人工太陽の位置を確認すると、一家に休憩を呼びかけた。
「続きは休憩の後にしましょう」
 それを見計らったかのように、ピアの差し入れの声が響いてきた。
 木陰でピアのパンに一息を吐いている時、イヴェットは隣で口いっぱいにパンを頬張ってもぐもぐさせているジスレーヌに静かに問いかけた。
「ちょっと気になったのだけれど……あなた、どうして避難船に乗らなかったの?」
 大洪水の時、避難船には女性や子供が優先的に乗せられた。このマテオ・テーペに子供が少ないのはそのためだ。
 ジスレーヌはきょとんと目を丸くした後、何故か少し寂しそうに微笑んで答えた。
「お父様が心配だったの。私が避難船に乗ったら、お父様は一人になってしまいますから」
「そう。お父様思いなんですね」
「そういうわけじゃ……」
 ジスレーヌは照れたのか、新しいパンにかぶりつく。
 イヴェットはそんな表情を微笑ましく見守り、別の質問を続けた。
「伯爵には娘さんがいるそうですね。会ったことはあるんですか?」
「え? う、ううん……お部屋からあんまり出て来なくて……」
「でも、避難船には乗ったのでしょう?」
「いいえ、乗らなかったそうですよ……」
 ジスレーヌはイヴェットと目を合わせようとせず、居心地悪そうにお尻をもぞもぞさせた。
 イヴェットはその様子をじっと見つめていたが、そのことについては指摘せず、まるで独り言のように伯爵の身を案じるような言葉を呟いた。
「伯爵もこんな事態になって、さぞお疲れでしょうね。ご趣味の釣りも一人で……でしょうし」
「うん……そうですね」
 ジスレーヌの声は少し落ち込んでいた。
「今は、亡き公王とのお約束のことで頭がいっぱいみたい」
「約束?」
「どんなお約束かは知らないけど、時々、手紙を見ながらぶつぶつ言ってるもの」
「きっと、大事な約束なんでしょうね。ところでジスレーヌさんは箱船には乗るんですか?」
「いいえ、乗りません」
 ジスレーヌの答えはきっぱりしたものだった。
 イヴェットは心配そうに言う。
「箱船が出航すれば姫が不在になり、障壁はかなり狭まるのでは……? 今以上にここは危険なところになるでしょう。同じ危険でも、船に乗ったほうがいくらはマシかと思いますが」
 イヴェットの気遣いにも、ジスレーヌは首を横に振る。
「私、それでもお父様の傍にいたいのです」
 今度はイヴェットの目を見て、ジスレーヌははっきり言ったのだった。

 甘辛く味付けされた具材を詰めた蒸しパンを食べながら、リルダはみんなから少し離れたところで日々整っていく畑を眺めていた。
 明日の朝には苗を植えたり種を撒いたりできそうな喜ばしい状況なのに、彼女の表情にはどことなく憂いがある。
 ──と、頭上に影が差した。
「最初はほうれん草にしようと思うんだ。それとソバ。イヴェットさんやピアさんのところでうまくいってるからね」
「うん、それでいいと思う。目に見えてグングン育っていくと手ごたえがあるからね。マルティアさんに監督をお願いした水耕栽培も、もうじき準備が終わるわ」
「そっちにも折を見て手伝いに行くよ」
「大丈夫? ちょっと働き過ぎじゃない?」
「リルダさんほどじゃないと思うよ。……焦りは、なくなった?」
 お邪魔します、と小さく断り腰を下ろすトモシ。
 リルダは何とも言えない苦い笑みをこぼした。
「ちょっと、気になることがね……」
 どこか遠くを見ながらぽつりと呟き、リルダは最後の一口を詰め込んだ。

☆  ☆  ☆



 マルティア・ランツが取り仕切ることになった水耕栽培は、当初は空き倉庫の利用を考えたが、倉庫内が暗すぎるため空き地を利用することになった。
 畑よりも近場にあることから、港町の人が興味本位に手伝いやら様子見やらに現れ、空き地は常に話し声に満ちていた。
 みんなでかき集めた水耕栽培用の容器は、一般的なプランターから何に使っていたのかわからない巨大な器まで様々だった。
 マルティアの指示で、それら一つ一つに手入れがされていく。
 最初はレタスの苗から始める予定だ。
「それじゃあ、そろそろ苗を移していきましょー!」
 水が張られた大小様々なプランターには、それぞれ同じ大きさの四角形になるように仕切りがされている。苗一つにつき一マスだ。
 マルティアも苗を手に取り、丁寧に入れていく。
「元気に育ってね」
 と、願いを込めて。
 すると、傍で手を動かしていた中年女性が心配そうに尋ねた。
「これ、誰かに盗まれたりしないかねぇ」
「うん……ここ、通りに比較的近いし、自警団も見回ってくれるそうだから、大丈夫だとは思うけど」
「見回ってるだけじゃなくて、参加もしてるぞー!」
 と、声をあげたのはルスタンだ。
 世話になっている家の畑の手伝いが終わってから、ここに顔を出していた。今日は見回りがない日だという。
「自警団の人だったんだ。そういえば、準備も時々手伝ってくれてたね」
「困ったことがあったら、俺達自警団に相談しろよ。……んで、泥棒対策だったな。そうだな……柵でも巡らせてみたらどうだ?」
「あ、そうだね。それがあるだけで違うかも」
「だろ? 柵作りも任せとけ!」
「ありがとね」
 ルスタンは得意気に笑った。
 一通り終わって休憩していると、リルダがひょこっと顔を出した。
 苗が並んだプランターに、リルダの顔が驚きに染まる。
「何だか壮観ね! 畑とは全然違うのね」
「ええ、私もできあがってからちょっとびっくりしたの」
「収穫が楽しみね!」

イラスト:沙倉
イラスト:沙倉


「うん。あ、そうだ。リルダさんも、これどうぞ」
 マルティアは今日の参加者にも手渡したヒヤシンスの小鉢を差し出した。
 群青色の小さな花がかわいらしい。
「あら、かわいいわね!」
「食べ物も大事だけど、お花もいいかなと思って。このまま鉢植えでもいいし、水耕栽培でも大丈夫よ」
「部屋が明るくなりそうだわ。ありがとう」
「みんなそう言ってくれたの。部屋が華やかになるって」
 それからマルティアは準備段階からの各資料をリルダにも見せた。
「ずい分細かくまとめてくれたのね。とても見やすいわ。収穫予想量はこれね。……うん、いいと思う。野菜不足は病気も引き起こすそうだから、がんばっていかないとね」
 そうだ、とマルティアはあることを思い出す。
「リエルさんがお茶会を開くんだって。もし時間があったら顔を出してね」
「いいわね。最近暗いニュースばかりだったものね。たまにはのんびりするのも必要よね」
「心配事ばかり見つめていると、気分が滅入っちゃうわ」
「行けそうなら行くわ。知らせてくれてありがとう」
 その後、リルダは畑の様子をマルティアに話し、お互いがんばろうと励まし合った。

◆第四章 領主の館のお茶会
 道の向こうに領主の館の門番の姿が見えた時、イリス・リーネルトの歩みが止まった。
 隣を歩いていたリック・ソリアーノが数歩遅れて足を止め、不思議そうに振り返る。
「どうしたの?」
「う、うん……。ねぇ、わたしの服装、変じゃないよね?」
 イリスが選んだのは、品の良い仕立てのお嬢様風のワンピースだ。
「とてもよく似合っててかわいいと思うよ」
「か、かわッ……えっと、ありがとう。それなら、いいかな」
 ふだんはどことなく頼りないリックを支えることの多いイリスだが、今日ばかりはリックがイリスを支えている。
 何といっても港町の庶民が行くことなどほぼありえない貴族のお茶会への出席だ。
 男爵の息子であるリックとは緊張の度合いが違った。
 だからこそ、イリスはリックを誘ったのだ。
「大丈夫、僕がいるよ。イリスはいつも通りでいいんだよ」
 差し出された手が、いつもより頼もしく見えるのは錯覚だろうか。
 それでも幾分かイリスの緊張はほぐれ、彼女はその手を取って一緒に歩き出した。

 門では執事のエドモンド・モズレーが招待状の確認をしていた。
 イリスが見せたカードににっこりしたエドモンドは、イリスとリックを会場となっている庭へ案内した。
 庭へ続く小道の両側を色とりどりの草花が飾り、訪問客を歓迎していた。
 緩やかに曲がる小道を抜け、バラのアーチを潜ると、視界が一気に開けた。
 人工太陽の光をやわらかく反射する芝生。
 涼し気な木陰をつくる枝ぶりの良い樹木。
 来る人の目を飽きさせないように配置された花壇。
 花の香りと紅茶の香り。
「エドモンドさん、ありがとう。後は大丈夫です」
「さようですか、リック様。もし何か御用がおありでしたら、遠慮なく申し付けてください」
 それでは、と下がろうとしたエドモンドを慌ててイリスが引き止める。
「あの、伯爵のご令嬢はどの方ですか?」
 とたん、エドモンドは苦笑した。
「お嬢様に会いに来てくださったのですか? あいにく、このお茶会には出席しておられないのです」
「じゃあ、お部屋に……?」
「いいえ、最近はよく町のほうに出ておられます」
「町に? ……そうですか。では、ロシェルお嬢様はどちらに? ご挨拶をしたいのですが」
「ロシェルお嬢様でしたら、あちらでございますよ」
 エドモンドは大きな木の下に設置されたテーブルを示した。
 そこには綺麗に着飾った数人の大人の女性と、イリスと年の近い女の子がいた。
 大人達は立っておしゃべりをしているが、女の子は一人で椅子に座っている。
 イリスはエドモンドに礼を言うと、足早にロシェルのもとへ歩みを進めた。
 彼女達の前に着くと、まずリックが挨拶をした。
「お久しぶりです、クローデット様。お元気そうで何よりです」
 おしゃべりを中断したクローデットがリックへ目を向ける。
 明るいブラウンの髪をアップにした、快活そうな女性だった。年は四十を少し超えた頃だろうか。貴族らしい気位の高さもうかがえた。
「あら、ソリアーノ男爵のところの……。しばらく見ない間に大きくなりましたね。お父様はお元気ですか?」
「はい、おかげさまで。最近ご挨拶に伺えないことを詫びておりました」
「いいんですよ、そのようなこと。あなたのお父様には大切なお仕事があるのですから。期待していますと伝えてください」
「ありがとうございます。あ、それで、こちらはイリス・リーネルトさんです」
「はじめまして。イリス・リーネルトといいます。よろしくお願いします」
 緊張した硬い声でイリスが挨拶をすると、とたんにクローデットの目が冷ややかなものに変わった。
 彼女は値踏みするようにイリスを上から下まで見ると、
「自然のままに育った花というのも、時には目新しく映るものですね。──ねぇ、リックさん」
 と、からかうように言った。
 リックの笑顔が固まり、イリスの頬が羞恥に染まる。
 クローデットはくすくす笑いながら、友人の夫人達と共に他のテーブルへ移動していった。
 やれやれ、と二人で肩を落としていると、とても控えめな声がかけられた。
「お母様が、ごめんなさい……」
 振り向いた先にいたのはロシェル。
 俯き、中身のなくなったティーカップを弄びながら、居心地悪そうにしていた。
 年はイリスより二つほど上だが、体格はあまり差がない。
「ううん、気にしてない。隣、座ってもいい?」
「……いいよ。紅茶も、どうぞ」
 やはり俯いたままだが、ロシェルの許しが出たのでイリスは椅子を引いて座った。
 リックが三人分の紅茶をカップに注ぐ。
 しばらくは会話もないまま三人でカップの中身を少しずつ減らしていたが、やがて誰からともなく近況を話し始めた。
 造船所の人達のこと、館での暮らし、温泉プールやマテオ・テーペ登山と虹のこと……。
「虹、私も見たよ……綺麗だった」
「温泉はどう? 体にいいって言うし、お母さんと一緒に行ってみたらどうかな」
「うん……人前で服を脱ぐのは……」
「じゃあ、足湯ならどうかな。足だけ温泉につけて、いつの間にか体もポカポカしてるよ」
「足だけ……。うん、それなら、たぶん……」
 この時、ようやくロシェルは少しだけ顔を上げ、チラッとイリスを窺った。
 イリスが笑顔をつくる前に視線はまた手元へ下ろされてしまったが、イリスはその後もロシェルの反応を見ながら話を続けた。
 決して弾んだ会話とは言えなかったが、ぽつりぽつりと話は続いていった。

 貴族のお茶会についてまったく知識のなかったコタロウ・サンフィールドは、その作法や服装をフレン・ソリアーノに教授してもらった。
 後はぶっつけ本番だ、と乗り込んできたのだ。
 どうなることかと思っていたが、好意的な目もあり、針の筵ということにはならなかった。
 ひとまずコタロウは話ができそうな夫婦に声をかけてみた。
 思い切って行動に出たのが良かったのか、夫婦は洪水前は貿易を手掛けていたと懐かしそうに話し始めた。
「私自身が海に出るわけではないのだがね、船が戻って来る日はワクワクして眠れないものだったよ」
 もう壮年の男性だが、子供っぽいところが残っているようだ。
「新しい地に移住したら、また始めたいものだねぇ。君はどうだい? 移住したら、やりたいことはあるのかい?」
「自分用の船をつくって、故郷や他のいろんなところを巡ってみたいですね」
「ああ、君は外国人だったのか。故郷のことがさぞ気がかりだろうな」
 貴族男性が同情するように言った。
 けれど、コタロウは笑顔で返した。
「どうなっていても、自分の目で確かめないことにはね……。そのために、造船所で造船技術を学んでいるようなものです」
「はは、たくましいな」
 最初に接したのがこの気さくな人で良かった、とコタロウが内心でホッとした時、ティーポットを持ったベルティルデ・バイエルがやって来た。
「紅茶のおかわりをお持ちしました」
 三つのカップに、丁寧に紅茶を注いでいくベルティルデ。
「コタロウさん、来てくれてありがとうございます」
「すごく緊張して来たんだけど、こちらの夫婦がいい人だから浮かずにすんでるよ」
「ふふっ。コタロウさんなら、誰とでも楽しくお話しできると思いますよ」
「そういうこと言うと調子に乗っちゃうよ」
 くすくす笑いあっていると、ベルティルデを呼ぶ声がした。
 見ると、ブーケを持ったリュネ・モルだった。
「ようこそおいでくださいました」
「ご機嫌麗しゅう。お話し中のところ申し訳ありません。ベルティルデさん、ロシェルお嬢様はどちらにいらっしゃいますか? もしよろしければ、取り次ぎをお願いしたいのですが」
「ええ、いいですよ」
 ベルティルデはコタロウ達に挨拶をし、リュネと共に離れて行った。
「ロシェルお嬢様もお気の毒ね。移住が叶えば少しはお元気になられるのかしら」
 貴族男性の妻が気遣わし気に言う。
「どうだろうな……。世界はどうなっているのやら。そういえば、ルース姫は造船所の男共相手にそうとうやり合ってると聞いたが、本当かね?」
 男性の目に好奇心が宿る。
 コタロウは苦笑しながら答えた。
「そんなすごい喧嘩みたいになってるわけじゃないですよ。まあ確かに、姫様の厳しい視点に戦々恐々なのは本当ですが、ありがたくも思っていますし」
「あの姫は率直で警戒心が強いが、嘘のないお人だ。敵は多いだろうが、君さえよければ味方になってやってくれ」
「ですが、もう少し思いやりのある言動を心がければ、余計な敵も減るでしょうに」
 どうやら旦那のほうはルースに肯定的だが、夫人のほうはそうでもないらしい。
「すれ違っても、愛想のない挨拶ばかりで。年頃の娘があれじゃあ……」
 男性二人は、夫人の愚痴にしばし付き合わされた。

 ベルティルデが紹介したリュネからかわいらしいブーケをもらったロシェルは、ブーケとリュネを交互に見比べた後、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 そして小声で何か言ったが、声が小さくて聞き取れない。
「すみません、今何と……? いや、年を取ると耳が遠くなるもので……申し訳ない」
 リュネはまだそんな年齢ではないが、見るからにカチンコチンに緊張しているロシェルを、少しでも気楽にさせようとそう言った。
「その……ありがとう、ございます。綺麗なお花……」
「いえいえ。元はこちらの庭にあったなのですよ。造船所の近くに温泉がありまして、そのすぐ傍の休憩所にある花壇に植える花として、伯爵様に少し譲っていただいたのです」
 ロシェルは、今は席を外しているイリスとリックから聞いた話を思い出した。
 その時、娘の様子を見にクローデットが戻ってきた。
 リュネとベルティルデは軽くお辞儀をした。
「あら、お花をもらったのですか。良かったですね」
 だいぶ気晴らしが進んだのか、クローデットの機嫌は良い。
「お母様、温泉……」
「造船所の近くにできたという温泉施設のことですか?」
「良いところですよ」
 リュネは温泉の効能などを簡潔に説明する。
「噂は聞いていますが……」
 わずかに眉を寄せるクローデット。
 良い印象を持っていないというよりも、何か思案しているように見える。
「この子の体も丈夫になるのかしら? それに、獣が出ることはないのですか?」
「今のところ温泉施設に動物が出たという話は聞いていませんね。お嬢様のお体については、専門家ではないので何とも……」
「ですが、先ほどさまざまな効能についてお話ししていたではありませんか」
「それはそうですが、薬とて必ず効果があるわけではないでしょう。人々の経験から、温泉に浸かるとこのような良い効果があったと伝えられているだけです」
 おそらく、クローデットもそのことはわかっているはずだ。
 独り身のリュネには想像することしかできないが、こんなふうに攻撃的になってしまうのも、娘への愛情ゆえなのだろうと思った。
 それからリュネは、先の発言に絡めて続けた。
「蓄積された経験や知識は、誰かが保存して伝えていかなければ時間の流れの中に消えてしまうでしょう。貴族層が抱える知識や文化の保存は、私達のような者には無理です。私達はお茶会のマナー一つ知りません。今後十年、二十年先、次の世代のことを考えると、今の暮らしが辛くても残さなくてはならないものがあるのではないでしょうか」
「……今後もこのようなお催しをしろとおっしゃるのですか?」
「あなた方と私達の距離は、以前とは比較にならないほど近くなってしまいました」
 この言葉だけで、クローデットはリュネの言いたいことを理解した。
 いつの間にかイリス達が戻っていて、どこかのテーブルから持ってきたお菓子を、ロシェルと分けあって食べている。
「……ビスケットにつけるのは、クリームとジャムと、どちらがお好きですか?」
 リュネとは視線を合わせないまま尋ねるクローデット。
 リュネが好みのほうを言うと、彼女はベルティルデにそれらを持ってくるように命じた。
 今はこれが精いっぱいの歩み寄りだった。

 クローデットとリュネのやり取りは、クラムジー・カープが立っている場所までは聞こえてこない。
 けれど、険悪ではなさそうなのは何となく感じることができた。
 今日のお茶会は、エドモンドから過去のお茶会の様子を聞き、それを下地にクラムジーがテーブルの位置や食事などをセッティングしたものだった。
 今のところ、悪い評価は耳に入ってきていないし、客同士のトラブルも起きていない。
「まずは一安心でございますね」
 静かに近くに来ていたエドモンドがクラムジーに労いの言葉をかけた。
「ご苦労様です。うまくやっているようですね」
 どうやらアシルを案内してきたようだ。彼の傍らには、いつものように護衛役を務める騎士団長のアイザック・マクガヴァンもいた。
「エドモンドさんのご指導のおかげですよ」
 本音である。
 過去の話からお茶会の演出のことは聞いたが、だからといってすぐに使えるものでもない。
 上手に工夫をこらせる人もいるかもしれないが、クラムジーはそういうタイプではなかった。
 地道にデータを集めて分析するのは得意だが。
 テーブルに出す飲食物はその分析力を生かすことができたが、テーブルの配置は……さて、どうだろうか。クラムジーには自信がない。
 苦い表情のクラムジーに、アシルは小さく笑った。
「もっと自信を持っていいですよ。基本を押さえていて堅実で、あなたらしいと思います」
「お世辞など……」
「お世辞の意味などないでしょう。それとも、町に帰りたくなりましたか?」
 止めませんが、と目で言うアシル。
 黙り込んでしまったクラムジーの背を、やや強い力でアイザックが叩く。
「ここで働くと、時々こうやって伯爵に意地悪されるぞ。今回みたいな無理難題も吹っ掛けられるし。それよりも、エドモンドについて執事見習いになったらどうだ?」
 それでは意味がない、と一歩引くクラムジー。
 もちろんアイザックは冗談で言ったのだが、まだ緊張が続いているクラムジーには少し刺激が強かった。
「……見回りに行ってきます」
 クラムジーは水差しを持ってその場を後にした。
 求められるままに水を注いでいると、リックの声に呼び止められた。
 イリスとロシェルのコップに水を注ぐ。
「今、海の上の話をしてたんだ」
 屈託なく言ったリックの内容に、クラムジーはそっとロシェルを窺った。
 いまだ傷ついた心をどうにもできないでいる少女に、この話題は辛くはないだろうか。
 伏し目がちではあるが、この話を嫌がっている様子はなかった。
 しかし、あまり感傷的になると苦しくなるかもしれない。
「皆さんは、雲がどうやってできるかご存知ですか?」
 三人は首を横に振る。
「雲というのは……」
 まるで講義でもするように、クラムジーは天気のシステムについて話して聞かせた。
 『外』を思って泣いてしまうよりも、今も人間のことなど知らん顔で繰り返されているだろう『外』の仕組みの一部について考えるほうがいい──そんなふうに思った。

 クローデットの様子を見ていたのは他にもいる。
 マティアス・リングホルムとルース・ツィーグラーだ。
「今日はおとなしいわね」
 どこか疑わし気に目を細めるルース。
「ふだんはもっと激しいのか?」
「ええ。気に入らないメイドがいればチクチクといびり倒すくらいにはね」
 チラッと聞こえたイリスへの言葉を思い出し、マティアスは何とも言えない表情になる。
「それもストレス発散の一環?」
「まぁね。いびる対象がいない時は、ひたすら昔の話よ。あの時はあれが素敵だったとかこの時はどこぞの有名な彫刻家に造らせた傑作が来た日だったとか」
 やれやれ、とため息を吐くルースに苦笑するマティアス。
「姫さんは芸術品には興味なしか?」
「そんなことはないけど、昔を懐かしんでばかりってのがねぇ」
 ふたたびため息を吐いた時、ルースと年の近い女の子が挨拶をしに来た。
 明るい色の膝丈ドレスを着たかわいらしい顔立ちの女の子だ。貴族のご令嬢であることは間違いない。
 彼女はルースににこやかな笑顔を向ける。
「ごきげんよう、ルース姫。こういった集まりに珍しく出席なさっていると聞きましたの。近頃はお部屋を訪ねてもお留守のことが多くて、寂しかったですわ」
「神殿のほうでちょっとね。あなたは元気そうね。少し前に体調を崩す人が続出したことがあったけど、何もなかったようで良かったわね」
 ルースの言葉は親し気だが、愛想はない。
「おかげさまで無事に過ごせましたわ。ルース姫はあの折には少し具合が悪かったと聞きましたが、それでもお勤めへ出られたとか。求められる方というも大変ですわね。私のように取柄のない者でしたら、見向きもされずに放っておかれましたのに」
 マティアスは、ルースの微妙な苛立ちを感じた。
「私なんてたいしたことないわ。あの時は、神殿でも倒れた人がいたから、まだ動ける私が行っただけ。当然のことをしただけよ」
「奥ゆかしいのね。それとも、神殿の方々に気を遣っているのかしら。確か神殿長は庶民の出でしたね。神殿ではやはり彼女を立てなくてはならないのでしょう? 気苦労が絶えませんわね。私でよけれは愚痴くらい聞きますわ。遠慮なさらないでね」
「ご親切にどうも」
「下々の者は口さがない者ばかりですからね……」
 そう言って、ちらりとマティアスを見やるどこぞのお嬢様。
 マティアスが貴族でないことは、服装から見て取っていた。
 彼は世話になっている親友の両親が用意してくれた正装を着ているが、堅苦しいのが苦手なため少し着崩していた。
「わかりやすくていいわよ」
「ふふっ。姫も率直なお方ですからね。素直な姫に惹かれるのは仕方のないことですわ」
 このお嬢様は、言葉と視線に含まれる心情がまるで一致していないことが、短いやり取りでわかった。
 ルースを褒めているようで蔑んでいる。
 何が原因でそんな態度を取るのかはわからないけれど。
 マティアスがムッとしていると、ルースは目の前のお嬢様に気づかれないように、そっと手で制した。
 何か言ったところで面倒くさくなるだけだ、と言いたげな顔だ。
 早くどこかに行ってくれ、マティアスが願った時、どこからか誰かが誰かをなじる声が聞こえてきた。
 マジェリア・カンナイは、アシルにどうしても話しておきたいことがあった。
 さらには余計な横槍は入れられたくなかったので、できれば二人だけの場がほしかったのだが、人の多いお茶会の場ではそれは難しかった。護衛のアイザックが常に傍にいるのでなおさらだ。
 だから、せめてアシルが出席者との会話から離れた時を狙って呼び止めた。
 聞きたいのは、最近のアシルの行動についてだ。
 マジェリアは、自分の名と造船所で働いていることを告げてから切り出した。
「労働者の不満の元はルース姫だと、何となくお話は伺っています。箱船計画総責任者である伯爵は理解のある人、と。私……いや、僕はできるだけ造船所に通っていましたが、伯爵のお姿を見ることは一度もありませんでした」
 アシルとアイザックを目を交わし合い、わずかに首を傾げた。
 けれど、すぐにマジェリアに視線を戻す。
「この館でないとできないことでもあるのですか? 視察もせず、作業所に労いの言葉もかけにくることもせず、貴方はただ傍観しているだけだ」
 言っているうちに感情が高ぶってきてしまったのか、マジェリアの語気が荒くなっていく。
 対して、アシルはその目に若干の戸惑いを見せていた。
 そしてマジェリアが何を言いたいのか、と耳を傾ける。
「貴方がしているのは、あそこで働くみんなへの理解ではなく放置です。僕達の未来を考えて行動なさっているルース姫様と比べて、貴方は何をお考えで箱船計画総責任者を名乗っているのですか?」
 マジェリアの苛立ちを受け止めたアシルは、いつものように落ち着いた態度で話し始めた。
「ここのところは造船所へ足を運ぶことはかないませんでしたが、様子を見に行ったことはありますよ。だいぶ前ですし、その時はあなたにお目にかかることはありませんでしたので、すれ違ったのだと思います」
 本当にずい分前の話だ。
「ですが、フレン所長から報告書は受け取り、目を通しています。あなたのことも書いてありましたが……報告よりもだいぶ元気が良いようですね」
「からかってるんですか……ッ」
「すみません、そういう意味ではなかったのです。──ひとつ、お伺いしたいことがあります。あなたは、なぜ造船所で働こうと思ったのですか? 私からの労いがほしかったからですか? たぶん、そうじゃないですよね。それに、造船所内の空気を私が上から強制することはできません。かえって混乱を招くでしょう」
 所長のフレンからも相談は受けていませんし、とアシルは締めくくった。
 フレンは労働者達からルースへの愚痴を聞いても、孫が知恵を絞って言ってきた意見だ、くらいの態度だった。
 その意見が正当なものなら聞いてやれということだ。
「きついスケジュールの中で、よくやってくれていると思っていますよ。あなたも含めて。どうか完成まで力を貸してください」
 マジェリアは黙ってアシルを強い眼差しで見つめていた。
 ルースとマティアスは二人のやり取りを聞いていた。
「あんたのこと、ちゃんと見てる奴は見てるんだな」
「どうでもいいわよ」
 ルースは照れたようにマジェリアから視線をそらした。
 その後、マジェリアはクラムジーに宥められながらその場から移動した。

◆第五章 明日を蝕まれないために~夜
 ついに、人工月打ち上げの日が来た。
 毎日の人工太陽を打ち上げている射出機の調整は、魔法研究所所員のエリカ・パハーレがしっかり行っていた。
 そして夕方、魔法学校にある旧天文塔にエリカとオーマ・ペテテ、魔法学校教師のキュカ・ロドリゲスが集まった。キュカは不測の事態に備えての参加だ。
 さらに塔の下は火の魔術師や港町、学校の生徒などの見物客で賑わっている。
 今日の打ち上げのことを、オーマやエリカなどこの計画を知っている人が広めたからだ。
「オーマ君、準備万端だよ。いつでも始められる」
 射出機に手を添えたエリカが、自信に満ちた目でオーマを見た。
 オーマは今日もいつも通り人工太陽の打ち上げに赴いていた。
 そして、この夕方のために帰宅後は睡眠をとり、体調を整えてきたのだ。
「いい具合に観客も集まったし、絶対に成功させようね!」
「もちろんだ。確か、所長も見に来てるんだよな」
「うん。研究所の人も興味津々だよ」
「学校の生徒達もな。……さぁ、始めようか」
 キュカの声で人工月打ち上げに取り掛かった。
 人工月は人工太陽に比べてずっと少ないエネルギーですむ。
 とはいえ、オーマだけでは負担が大きいので、今後は最低でも二人の火の魔術師で打ち上げられる予定だ。
「いいよ……うん、何の問題もないね……そのまま続けて」
 計器を見つめるエリカの声に従いつつ、火の魔力を変換器に注いでいく。
 オーマは人工太陽の時よりもずっと緊張していた。
 何度も呼吸を整え、ともすれば吹き出しそうな魔力を必死で抑えてコントロールする。
 そして──。

イラスト:じゅボンバー
イラスト:じゅボンバー

「あがった!」
「月だ!」

 射出の数秒後、地上から歓声が届いた。
 オーマも東の空を見やると、丸く輝く銀盤が確かにあった。
「……やった!」
「成功だな」
「うん、歪みもないし、設定通りの軌道で移動していくと思うよ」
 三人は笑顔でハイタッチを交わす。
 ……が、すぐにオーマの笑顔は力ないものになる。
「神殿の夜番の気休めになればなーと思ったのが動機なんだけど……死人が出ちゃあね……」
 その言葉に、エリカとキュカの笑みをじょじょに引いていった。
「これ以上、出さなきゃいいんだよ」
 口元を引き締め、エリカが言う。
「今夜は自警団の見回りがあるんだって。この月は、きっと彼らの助けになるよ。だから、自信を持って続けていこう」
「……うん。よし、今夜は月の動きをチェックしておこう」
「あたしも付き合うよ」
「徹夜になるよ」
「慣れっこだよ」
「私は学校にいるから、何かあったら呼びにくるといい」
 お疲れ様、と言ってキュカは塔を下りて行った。
 オーマとエリカは一時間ごとに月の軌道や光の具合などを記録していくことにした。
「ん……火の魔術師の人が手伝ってくれるのは嬉しいけど、他の火属性の人に力を借りるのもありかなぁ」
 人工太陽打ち上げ後の疲労感はオーマもよく知っている。
 打ち上げ後、彼らにも仕事がある。
 月の打ち上げまで頼むのは、負担になりすぎないかとオーマは懸念した。
「それなら、集会所の掲示板で募集してみたら? リルダさんに頼めばお知らせを貼り出してくれると思うよ」
「ふむ……いろいろやってるもんね。料理教室とか」
 この後の人工太陽打ち上げまでを終えたら、さっそく集会所へ行ってみようとオーマは予定を立てた。

☆  ☆  ☆



 打ち上げられた人工月は、あづまが営む居酒屋兼飯処『真砂』でも見ることができた。
「こりゃ幸先良いぜ!」
 店先ではしゃいだ声をあげるルスタン。
 今日の夜勤組は、数日前に日勤組が掴んできたいかがわしい集会の取り締まりに行くことになっている。
 情報によると、空き巣などで奪った物品をとある空き倉庫でオークションにかけるらしい。
 出かけるメンバーの中に、ステラ・ティフォーネがいた。日中は領主の館での仕事があるため、夜勤に参加したのだ。
 見るからに荒事とは無縁そうな彼女を、ルスタンはけっこう気にしていた。どちらかと言えば否定的なほうで。
 足手まといになるのではと疑っているのだ。
 片手にランタン、腰に捕縛用のロープを提げているが、いざという時ロープが足に絡まって転ぶのでは……などと思って見つめていると、不意にステラと目が合った。
「大丈夫ですよ。魔法で足止めくらいはできます」
 魔法がヘタクソなルスタンには頼もしい言葉だったが、どうしても懐疑的な目になってしまう。
 それはともかく、夜勤組はアンセルの出発の声で真砂を後にした。

 日勤組が調べてきた件の空き倉庫には、確かに人が集まっていた。
 今夜、空き倉庫を利用する予定がないことはリルダに確認済みだ。
 倉庫の入口には見張りが二人いた。
 建物の陰に身を潜め、自警団は打ち合わせをする。
「俺が奴らを引き付ける」
 ルスタンの立候補を許可するアンセル。
 ルスタンが引き付けたらアンセル達が突入、ステラともう一人魔法に長けたメンバーが外へ出た者の捕縛を担当することになった。
「んじゃ、ちょっくら行ってくる」
 ルスタンは軽く手をあげるとフードを深くかぶり、倉庫のほうへ走っていった。
 駆け寄って来る彼を見張りは警戒したが、一言二言会話を交わすとすぐに警戒は解かれた。
「何を話したんでしょうね」
「さあ……。二人とも、ここは任せた」
 そう言ったアンセルのまとう空気がピンと張り詰める。
 ステラも、これから始まることに備え、入口に意識を集中させた。
 そして、ルスタンが何やら話しながら二人の見張りを入り口前から引き離した時、アンセル達突入組が各々の武器を抜いて殺到した。
「この倉庫の使用は許可されていない! ここで何をしている!」
 圧倒するようなアンセルの声が響き渡った。
 気づいた見張りがルスタンを押しのけてアンセル達に飛びかかろうとするが、ルスタンに足を引っかけられてすっ転んだ。
 二人が地面でもがいているうちにアンセル達が倉庫へ押し入る。
 ステラともう一人は物陰から素早く駆け出し、見張りが立ち上がる前にルスタンと三人がかりで武器を奪い、気絶させた。
 ステラは捕縛用に持ってきたロープで、見張り二人の手首を拘束した。
 その時、倉庫のほうから「逃げたぞ!」という誰かの声があがった。
 ハッとして入口を見ると、大柄な男が一人必死の形相で転がり出てきた。
「どけぇ!」
 男は三人の中で一番弱そうに見えるステラに突進してくる。
 ルスタンともう一人が男の両脇から押さえにかかり、ステラはとっさに男を指さすとその顔面に風を叩きつけた。
 それほど強い魔法ではない。一瞬怯ませるくらいだ。
 けれど、取り押さえるにはそれで充分だった。
「くそっ、離せッ」
 もがく男の手首をロープで締め上げる。
「盗品でオークションなど……」
 ステラの口からため息がこぼれる。
 どうやら倉庫内も片付いたようで、先ほどまで響いていた物騒な音や声が消えた。
「終わったようですね」
 落とすようなステラの声に、ルスタンの下で抵抗していた男もようやく諦めておとなしくなった。

 オークションに出されていた物品を回収し、主催者一味を騎士団詰所へ送り届けるなどの後始末を終えると、今夜は解散となった。
 他のメンバーはそれぞれ帰宅していったが、アンセル、ルスタン、ステラは真砂へ向かう。
 出発した時は東の空の低い位置にあった人工月は、今はもう頭上にまで上っていた。
「おかえりなさい」
 カウンターからたおやかな微笑みで迎えたあづまの向かいにプティが座っていた。
 時間も時間のため、店内に客は少ない。
 プティは三人をざっと見て怪我がないことがわかると、そっと安堵の息を吐く。
「他の奴らも無事なんだよな?」
「ああ。かすり傷程度だ。心配いらない」
「そっか。……それで、どんな具合だった?」
 三人はそれぞれカウンター席に腰を下ろし、捕縛劇の顛末を話して聞かせた。
 あづまも耳を傾けている。
 そもそも、あの闇オークションの情報を掴んできたのは、あづまとプティなのだ。
「倉庫から野郎が飛び出してきた時、このグラマーねーちゃんが動けたのは驚きだったぜ」
 グラマーねーちゃん、とステラを指さすルスタン。
 あの出来事により、ルスタンがステラを見る目は変わっていた。
 何だかんだ言いつつも、仲間と認めている目だ。
 ところで、捕り物も大事だったがステラにはもう一つ気になることがあった。
 水の魔術師が殺害された事件のことだ。
 今回は闇オークションだからそれほどの警戒もなかったが、もし犯人が魔法に長けた者を狙っているのなら、騒ぎに乗じてステラを消しにかかってきていたかもしれない。
 幸い、そのような気配はなかったが。
「やっぱり騎士団の中に犯人がいて、隠してんじゃねぇの?」
「動機も目的も不明のままで、そう決めつけるのはどうかしらねぇ……」
 面倒くさそうに断言するルスタンを軽くたしなめたあづまは、視線をアンセルへ移した。
「被害者は本当にただの被害者だったのでしょうか?」
「うむ……私も気になって調べてみたんだが、殺されるような背景は何もなかったんだ」
 誰かに恨まれるようなことも、金銭関係のトラブルも、何もなかったらしい。
 あづまはまるで真偽を確かめるようにアンセルを見つめた。
 彼女はアンセルに対し、一つの推測と懸念を抱いている。
 もしそれが当たっていれば、アンセルが自警団を持ったことは重要な意味をもつ。
 しばらく見つめ合っていた二人だが、先に目をそらしたのはアンセルのほうだった。
「これだけ被害者に後ろ暗いところが見えないとなると、人違いだったのか……別の意図があるのか……」
 アンセルは独り言のように呟いた。

◆第六章 港町のお茶会
 闇オークション事件から数日後。
 リエル・オルト主催の、港町の人のためのお茶会が催された。
 マテオ・テーペに二年ぶりに風が吹いた日、リエルが看病に行っていた仕立屋の女性も招待した。
 さらに、ピアとシャオが数種類のガレットを差し入れしてきたのは、リエルだけでなく呼ばれたお客みんなが喜んだ。
 ピアはこの日のために、シャオの協力も得ながらガレットの研究を続けていたのだ。
 このことは、畑仲間のトモシ達にも内緒だった。今日披露してびっくりしてもらいたかったからだ。
 一通り声をかけた人達が集まった後も、リエルは店の扉を開けたままにしていた。
 通りがかりの人でも、気軽に入って来られるように。
 カフェ兼酒場は、久しぶりに活気づいた。
「名目は、みんなの快気祝いってとこ。本当に、元気になってよかったよね!」
 リエルの挨拶でささやかなお茶会は始まった。
 お酒の代わりに、少し薄めに淹れたお茶に香りづけの果物の皮を添えた女性が好みそうなお茶、それから庭で摘んだハーブを使ったハーブティ。こちらはそれなりに種類があり、それぞれ好きな味を選んでいた。
 ピアにガレットのお礼を言ったリエルは、ついでに水耕栽培について聞いてみた。
「倉庫のあたりで大きなものを育てていますが、小瓶などを使って家庭でも作れますよ」
 試しにカイワレダイコンを育てているというピア。
 生長が早く手軽にできるのが特長だという。
「スプラウトは見た目によらず栄養豊富って言うもんね」
「ええ。マルティアさんには感謝ですね」
 そのマルティアもこの場にいる。
 トモシやイヴェットと情報交換していた。
「それにしても……なるほど、ですね」
 ピアはテーブルに並べられた軽食類に目をやり、感心したように一人頷いている。
 リエルが用意したのは、クラッカーとそれに添えるクリームチーズやジャム、それからレバーペーストにタルタルソース。他、濃い目に味付けされて、少しでも食べた気になれるような一品。小さなスプーンに一口ずつ料理を乗せて、見た目を楽しませたり。
 さらに目を広げると、テーブルにも工夫がされている。
 テーブルクロスの角をリボンで結んでかわらしく見せ、生花の代わりに紙や布で作った花を飾る。
 見た者にやわらかな印象を与えた。
 その時、ハーブティのおかわりに行っていたシャオが、変な顔をして戻って来た。
「どうしたのですか?」
「バオリゥレシーカイデァユァンウェイ……いえ、草原のようなと言いますか……野生のような……」
「?」
 シャオは故郷のものと思われる言葉を発した後、やはり変な顔をしたままもごもごと続けた。
 ハッとしたリエルが、シャオの持つカップを彼の手ごと引き寄せ香りを確かめて愕然とした。
「あ、あれ!? これ、テーブルに出てた?」
「ええ」
「ごめんっ、これ間違いっ」
「間違い……?」
「ちょっと待ってて!」
 リエルは慌てた様子でパタパタと駆けて行った。
 シャオはカップの中に残る液体を見ながら呟いた。
「謎茶……」
 しばらくして戻ってきたリエルの手には、爽やかな柑橘系の香りがするお茶があった。
「ごめんね。これで口直ししてくれるかな?」
「ええ、ありがとうございます。お酒が一番好きですが、お茶も好きなんですよ。……うん、これもいいですね
 シャオの笑顔に、リエルはホッと胸を撫で下ろした。
 もちろん彼に謎茶と言われた代物は、奥に引っ込めてきてある。
 その頃、マルティア達のところにはクラムジーが顔を出していた。
 領主の館で働くことになったと、報告に来たのだ。
 いろんなことを考えた結果の選択なのだろうと察したマルティアは、ただ一言。
「がんばって」
 と、彼の新しい職場での活躍を願った。
 お茶会の終わりには、それぞれの手にテーブルを飾っていた造花があった。

 

 

個別リアクション

『魔導兵器実験』

『正体不明の不安感』

 


 

 こんにちは、マスターの冷泉です。
 このたびはリアクションの公開が遅れてしまい、たいへん申し訳ありませんでした。

 今回で前半の終わりとなります。
 後半のオープニングは、7月中旬から下旬頃公開の予定です。
 その間に、新規参加の募集や、のんびりほのぼの系のちょっとしたシナリオが行われる予定です。
 こちらにもご参加していただけると嬉しいです。

 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。