メインシナリオ/グランド第5回
『あなたのための希望のうた 第5話』



◆第一章 探る目
 伯爵からの通達で、水の神殿もにわかに慌ただしくなった。
 Drカーモネーギーと魔法研究所所長のジョージ・インスは、障壁を張るための魔法具がある神殿の奥の間の隅で、あれこれと話し合っていた。
「障壁の最小時に、海側になる施設や屋敷にある魔法鉱石を使った製品を回収するネギ! それを使って、障壁の強化装置を作るネギ!」
 Drカーモネーギーの案に、なるほどと頷くジョージ。
 魔法鉱石の採掘が望めない以上、あるもので何とかするしかない。
「うまくすれば、縮小を多少は抑えられるかもしれん」
「さっそく伯爵に依頼するネギ!」
「そうしよう。手紙を書くから、お前も署名してくれ」
 机の引き出しから便箋と筆記具を用意したジョージに、Drカーモネーギーが追加の要望を出す。
「あと、亡き公王の研究資料があれば、それも欲しいネギ!」
「書き足しておこう」
 返事はそれほど遅くはならんじゃろう、とジョージは言った。
 そんな二人を、チラチラと気にする視線が一つ。
 エリス・アップルトンは、少し前にジョージから聞いた話がずっと気になっていた。
 かつてあったウォテュラ王国の兵器実験とその失敗。この水の神殿がここで果たしている役割──。
 考えても考えても、納得できる答えは出てこなかった。
「少し、休みましょうか」
 神殿長のナディア・タスカの声に、エリスはハッと顔をあげた。
 自分が今、障壁維持の手伝いをしていたことを思い出し、小さな声で「ごめんなさい」とナディアに謝る。
 ナディアは静かに微笑んで、エリスをDrカーモネーギー達のほうへ誘った。
「お二人も、少し休みませんか? 今日も朝早くから詰めていたでしょう」
「もう夜ネギか?」
「まだお昼にもなっていませんけれど、休憩にはちょうど良い頃合いですよ」
 時間にして、10時半頃だ。
 伯爵への手紙を書き終えたジョージが、グッと伸びをした。
「では、少し休むか」
「お茶、淹れてきます」
 エリスが休憩室へ行くと、残った三人は外の空気を吸いにエントランスへ出ることにした。
 最近は神殿へ祈りにくる人が増えてきていたが、時間帯のせいかまだそれほど多くはない。
 二人、三人と、祭壇前で跪き祈りを捧げているくらいだ。
 Drカーモネーギー達は壁沿いに少し歩き、適当なところで腰を下ろした。
 静かなエントランスに、そよそよと風が流れてくる。
 今日もマテオ・テーペの頂上から、風の魔術師達が風を送っているようだ。
 体調を悪くしていた人達はかなり回復したと言うが、ゼロになったわけではない。
 しばらく黙ってそよ風に吹かれていると、やがてお盆にハーブティを乗せたエリスがドアを開けて姿を見せた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます。いい香りですね」
 最初に受け取ったナディアは、カップから立ち上る爽やかな香りに頬を緩めた。
 Drカーモネーギーとジョージにもティーカップを渡し、最後に自分の分を手にして座り込むエリス。
 並んで腰を下ろす四人は、祈りを終えて帰っていく人を黙って見送る。
 カップの中身を半分程まで減らした頃、エリスは「あの」と小さく声を発した。
 隣のナディアが、エリスに視線を向ける。
 エリスは、ずっと頭の中をグルグルと引っ掻き回すいくつもの疑問のうち、一つ目を口にした。
「世界をこんなふうにした実験の失敗とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。そこで、何が起こったのでしょう」
 答えたのは、ジョージだった。
「現場にいた者達は、もうこの世にはおらんじゃろうからなぁ。……これは、わしの予測じゃが」
 エリスは、話の続きにじっと耳を澄ます。
「火の一族から奪った力を用いた兵器の実験なら、失敗時を考えて水の魔力の吹き溜まりである、氷の大地で行われたのかもしれん」
 魔法の属性である地、火、水、風には、それぞれの魔力が集まる吹き溜まりがある。
「失敗しても、水の魔力の吹き溜まりに働きかけて影響を最小限に抑えようとしたのじゃろう。じゃが、実験の失敗は想定以上の破壊力で現場を壊滅させた──。おそらく、氷の大地はすべて溶け、そして世界を大洪水が襲ったと、わしは考えておる」
「広大な氷の大地を溶かしたとしたら、兵器に使われた火の魔力が暴走したのかもしれませんね」
 ナディアも自身の予測を加えた。
 世界を変えてしまうほどの兵器があったことに、エリスは身震いした。
「障壁の維持に使っている魔法具の力ですけど、もし、他の何かを封じるためのものだとしたら……もしそれが、かつては火の一族が封じていたものだとしたら……、今の状態は、何かの拍子にそれが弾けてしまいそうな、危険な状態なのでしょうか」
 まるで独り言のように呟いたエリスは、ふと思いついたように早口に言った。
「手記……前の神殿長が、手記か何か残していませんか?」
「あるかもしれませんが、一族以外は見ることはできないと思われます。他に関連するものも残っていないようですし」
 神殿長を引き継いだナディアは、当然、前神殿長の執務室も引き継いだ。
 一通り室内のものは改めたが、エリスの疑問に答えてくれそうなものは見なかったのだ。
 それと、とナディアは続ける。
「先日フレンさんに聞いてみたのです。箱船計画の本当の目的について」
 箱船計画とは、移住地を探すことなのか、それとも水の魔力の吹き溜まりを探すことなのか。
「何て答えた?」
 ジョージに促されたナディアは、苦笑を返した。
「知らないそうです。彼が知っているのは、私達と同じことだけだと言ってました。ただ、たとえ吹き溜まりを探すことが目的だったとしても、箱船を完成させることには変わりはないと」
 そうか、とジョージは感情の窺えない短い相槌を打った。
「わたし、今までは単純に外の世界を見たいと思っていただけでした。ですが、本当に外へ行きたいのなら、きっとそれではダメなのでしょうね。わたしにもお手伝いできることがあるでしょうか」
 役に立ちたい、というのはエリスがいつも思っていることだった。

 旧天文塔から水の神殿への道を歩く二つの人影。
 二人は、障壁縮小後の人工太陽射出機について話していた。
「……ふぅん、じゃあ射出機は移動すると思っていいんだね」
 オーマ・ペテテの確認に、エリカ・パハーレが頷く。
「移動先はマテオ・テーペの頂上が第一候補だよ」
「あんなとこまで運ぶの? マジで?」
「よほどのことがない限り、マジだね。ま、運ぶのは力自慢の皆さんにお願いすることになるから、君やあたしはついて行くだけになると思うよ。……ああ、君が箱船に乗らないならだけど」
「箱船か……。エリカは?」
「あたしは乗らないよ。乗組員は伯爵が決めるんだろうけど、仮に指名されても辞退するつもり」
 きっぱりと言い切ったエリカを、オーマは黙って見つめていた。
 箱船の乗組員については、今朝の人工太陽を打ち上げた後に話題になった。
 乗組員は誰なのかについては、魔法学校の教師であるキュカ・ロドリゲスも知らなかった。
 それよりもキュカは、魔法学校が予想縮小範囲の外に出てしまうことを惜しんでいた。
 彼女は図書室や学校にある貴重なものを他へ移したいと考えているようで、同僚のハビ・サンブラノと移動先を探しているそうだ。
「ところで、縮小された障壁の範囲に合わせて太陽と月の軌道も調整されるのかな?」
「そうだよ。そこらへんの計算は所長とやっていくね。そうだ、Drカーモネーギーが水没予定にある屋敷とかの魔法具の回収依頼をするそうでね。伯爵もダメとは言わないだろうから、もしかしたら魔法鉱石が少し集まるかもしれないんだ」
 嬉しそうにエリカは言う。
「使いたいところがあるの?」
「うん。食糧生産や暖房のほうで何か作れないかなって思ってる。一番の使い道は障壁のほうだけどね」
「障壁が小さくなっても、月は打ち上げられるかな?」
「あたしはそのつもりでいるよ。やっぱり、お月様っていいもんだよね。一日の仕事を終えて、月を眺めながら一杯……とかね」
「……あんた、まだ未成年じゃなかったっけ?」
「気分だよ気分!」
 本当はジョージや魔法研究所の人達と薄いエールなんぞ飲んでいるのでは、とオーマは疑いの目を向けたが、エリカに笑ってごまかされてしまった。
 軽くため息を吐きつつ、オーマは話題を射出機に戻す。
「とりあえず、移設日と場所が決まるまでは、いつも通りでいいんだね」
「そうだね」
「移設中は太陽の打ち上げは?」
「日没までにがんばって移動……かな」
「……できるの?」
「うん……それも計画立案中」
 自信なさそうに答えたエリカだった。
 それから二人が水の神殿に着き裏口のほうへ回ると、水の魔術師でも魔法研究所の者でもなさそうな、帽子を深く被った男性がウロウロしているのを見つけた。
「オーマ君の知り合い?」
「いや、知らない。……あんた、何やってんの?」
 エリカに答えたオーマが、その人物に呼びかける。
 二人の存在に気づいていなかったのか、男はビクッと肩を跳ねさせた。
「神殿の人に用事かい?」
 オーマがさらに話かけると、男は小さく舌打ちして帽子をさらに深く引き下げ、足早に去って行った。
 すれ違う際、オーマは男の顔を確認しようとしたが、そっぽを向かれて叶わなかった。
 怪しい、と呟くオーマ。
 裏口を潜り休憩室を抜け、魔法具のある奥の間に入った二人がこのことをナディアに知らせると、彼女は眉をひそめて重く息を吐き出した。
「実は、ここのところ神殿を何者かに探られている気がするのです」
 その言葉にサッと緊張したオーマは、まるで裏口の外を透かし見ようとするようにドアに目を凝らした。
「警備隊のバートさんには相談しているのですが、あちらも今は手が足りない状況ですからね……。皆さん、あまり一人歩きはしないようにお願いします」
 憂いを帯びた目を伏せ、ナディアが言った。
 むむ、と唸るような声をもらしたDrカーモネーギーが疑問を口にする。
「覗き犯の目的は何ネギ? 魔法具ネギ!?」
「お、落ち着きなよ。そうと決まったわけじゃないんだから」
 だんだん声が大きくなっていったDrカーモネーギーを、オーマが宥める。
 謎の覗き犯の目的はわかっていない。
 この神殿に戦いに慣れた者はいないため、ナディアとしてはこちらから取り押さえに行くようなことは、できればしたくないと思っている。
 覗き犯は、ルースがいる時には現れないようだ。
 姫がいる時は、護衛の近衛兵もいるので警戒しているのだろう。
 ナディアは、ひっそりとため息を吐いた。

 二日後、Drカーモネーギーとジョージ宛てに伯爵から返事の手紙が来た。
 要請の許可の手紙だ。
 伯爵のほうで魔法鉱石が使われている品を集め、順次神殿のほうに運ぶという。そのため、保管する倉庫を造ると書いてあった。確かに、神殿内に集まって来る品々を置く場所はない。
 それに伴い、魔法研究所も移設が決まった。
 神殿付近に移すという。
「……ほう。ひょっとしたら魔法鉱石が手に入るかもしれないとな」
「でも、期待はするなとか、手に入るとしてもだいぶ先だとも書いてあるネギ」
 二人は顔を寄せ合いながら手紙を読み進める。
 それから、Drカーモネーギーが要望を出した、故公王の研究資料の写しが同封されていた。
 それは、現在造船中の箱船の前身となるものの簡単な設計図だった。図面は二隻分。それと、そこに設置予定だった魔法具の設計図だ。
「避難船と調査船ネギ」
「ふむ……おそらく、避難船のほうは造船が間に合わなかったか、予想以上の惨事になったため造れなくなったかしたのじゃろう」
「どちらにもいろいろな魔法具が設置されてるネギ。今の船にこのまま使われているのは、推進用の魔法具だけみたいネギ」
 ルースが造船所で技術者にさんざんケチをつけている魔法具は、彼女独自の要望だったようだ。
 設置されなくなった──あるいはできなくなった魔法具として、食糧の長期保存を目的とする大きな箱、通常の望遠鏡よりももっと遠くを見れる仕掛けがされた望遠鏡、船用と人間用の武装の類、命を守るために身に着ける魔法具、非常時に備えた魔力貯蔵装置……。
 長い船旅で必要と思われる道具は、ほとんどが魔法鉱石を使って強化されたものになっていた。
「性能の強化と無駄を省くこと……目的は吾輩と同じネギ」
「参考になりそうなものはあったかの?」
「魔法具の強化、きっとうまくいくネギ」
 それからしばらくの間、Drカーモネーギーは送られた図面とにらめっこをするのだった。

◆第二章 造船所放火未遂事件
 新鮮な野菜を籠一杯に抱えたマジェリア・カンナイが造船所へ仕事をしに来た時、門の両脇は自警団員二人に守られていた。
 片方はステラ・ティフォーネであった。
「おはようございます。お仕事がんばってくださいね」
「あ……はい。警備、ご苦労様です」
 淡い微笑みを向けられたマジェリアは、門番よろしく立っているステラに戸惑いつつ会釈して中に入った。
(自警団の人達、しばらくいるのかな……)
 ここ二日間、自警団の造船所警備は続いている。
 彼らがいるので、物騒な気配を持った輩は近づけないが、造船所の周りはいつになく様子見の人が多い。おとなしい彼らも、内心ではどう思っているのかわからない。
 すっかり物々しい雰囲気になってしまった、と寂しく思いながら奥へ進んでいると、職人の一人がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「なぁなぁ、あの門のとこにいるグラマーなねーちゃん、知り合いだったりしない?」
「まったく知らないわけではありませんが、知り合いというほどでは……」
「えー、そうなの? ちぇっ、紹介してもらおうと思ったのに」
「何を考えてるんですか……」
 呆れた顔で職人を見上げると、彼はテヘヘとごまかし笑いを浮かべた。
「ところで、フレン所長がどこにいらっしゃるかわかりますか?」
「ああ、まだ所長室にいるはずだよ」
 その答えにマジェリアは礼を言うと、何度か訪れたことのある所長室を目指した。
 訪問を告げ、入室許可をもらってから室内に入ったマジェリアを迎えたのは、フレン・ソリアーノの笑いを含んだ声だった。
「よぅ! 聞いたぜ、お前さんの武勇伝! おとなしそうな顔をして意外と熱いんだなぁ」
 何のことかとマジェリアは首を傾げたが、すぐに先日の領主の館で開かれたお茶会のことだと気が付いた。
「あ、あれはそんなんじゃ……っ。いったい誰から聞いたんですか? まさか、伯爵に……」
 ちょっとした早とちりで伯爵を責めてしまったことを思い出し、恥ずかしそうに頬を赤くするマジェリアに、
「違う違う」
 と、訂正を入れるフレン。
「用事で館へ行った時に、お茶会に出席してた貴族から聞いたんだよ」
「もう忘れてください……」
「いやいや、ここで働いてる連中のために言ってくれたんだろ。ありがとな」
「でも、勘違いでしたし」
「いいんだよ。その気持ちが嬉しいんだから。みんなもきっと、そう思ってるさ」
「……え。あ、あの、みんなって……みんな、知ってるんですか?」
「こういう話が広まるのは早いのさ」
 嘘だ、この人が広めたんだ。マジェリアはそう確信した。
 フレンは機嫌良さそうにマジェリアに訪問の趣旨を聞いてきた。
 ごまかされた気がしつつも、用件を口にする。
「とりあえず、この野菜はお土産です。どうぞ」
 気を取り直し、採れたての野菜が入った籠を机の上に置く。
 フレンは目を丸くし、そして破顔した。
「こいつはうまそうだ! 食堂に持っていっていいか?」
「ええ。おいしい料理にしてもらいましょう。えと……それと、お聞きしたいことがあります」
「何だ?」
「箱船の大きさのことです。箱船計画で想定されていた船の大きさは、どなたが決めたのでしょうか」
 ふむ、とフレンは考え込んだ。
 聞かれたくないことを聞かれたというわけではなく、答えを頭の中で整理しているような顔をしている。
 ちょっと長くなるが、と前置きしてからフレンは話し始めた。その際、マジェリアは椅子を勧められて静かに腰を下ろした。
「箱船計画は、大洪水前にすでに枠組みはできていたんだ。……と言っても、俺がそいつを知ったのはここを任されてからで、その内容も詳しくは知らねぇ。伯爵が持ってきた箱船の設計図を書いたのは、亡き公王様だそうだ。その後、ここにある資材で造れる大きさに書き直したのが、俺と伯爵だ。──ところで、どうしてこんなことを?」
「……ここで一生懸命働く皆さんに、何かあったら嫌だなと思ったんです。外は、ちょっと変な空気じゃないですか」
 本当に危険な事態に陥った時の対策の一つとして聞いたことは、マジェリアの胸に秘めておいた。
「なるほどな。ま、心配すんな。ここのやつらには俺が手出しさせねぇよ。だから、外から何か言われてここのやつらから喧嘩しに行かねぇように、お前さんが見張っててくれ」
 確かに、ここの労働者の中には一部血の気の多い者達がいることを思い出し、マジェリアは苦笑して頷いたのだった。
 マジェリアが所長室を出る頃、ルース・ツィーグラーが近衛兵に守られながら造船所に姿を現した。傍らには侍女のベルティルデ・バイエルもいる。
 一行が門を潜ると、すぐにステラ達自警団により閉ざされる。
 その際、先日行われた通達により箱船計画に疑問や不満などを抱えてやって来ていた住民達の声が流れてきた。
 彼らの疑問や不満、不安は、攻撃的な言葉となってルースを責め立てていた。
 壁に囲まれた造船所内に入りそれらの声がほとんど聞こえなくなると、ルースは面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「暇を持て余している人が多いですこと」
「ですが姫様、あの通達内容では無理もないと思いますよ」
 ベルティルデが苦笑しながらたしなめる。
 その時、近衛隊長のサスキア・モルダーがだいぶ耳に馴染んだ名を口にした。
 近衛兵達の隙間から顔を覗かせると、サスキアの前に長身で紅毛の青年が立っていた。
「マティアスじゃない。どうしたの、こんなところで」
「ちょっとバイトしに」
「そう。……ま、外で文句たれてる連中よりずっとマシね。見直したわ」
「そんなこと見直されてもな……」
 いったい自分はどういう目で見られていたのかと、マティアス・ リングホルムは複雑な気持ちになった。
 その時、誰かがマティアスを呼ぶ声がした。
「あ、作業の途中だったんだ」
 やべぇ、とマティアスが小さくこぼした時、コタロウ・サンフィールドが困り顔で小走りにやって来た。
「マティアス……急にいなくならないでよ。びっくりするじゃないか」
「ごめん」
 怒っているというよりは、その表情通り困っているというコタロウ。
 そして彼はすぐにルース達に顔を向けて会釈した。
「おはようございます。船を見に来たんだよね。もう完成間近だよ」
 そう言ってコタロウが目を向けた先には、一隻の大型船。
 箱船だ。
 ルースは、その船を厳しい表情で見据えた。
 そこには、造船所の人達が汗水たらして造り上げた船に対する感激や感謝を通り越した、別の感情があった。
 それを感じ取ったマティアスは、ルースに聞いてみた。
「なぁ、姫さんは箱船で外へ出て何をしたいんだ?」
 瞬間、ルースは思いも寄らないことを聞かれたような、ある意味、間抜けた顔をした。
「言ってなかったかしら。私は役目があって乗るのよ。それ以外の理由はないわ」
「そうか……それは初めて聞いたな」
 マティアスも箱船に乗れるなら乗りたいと思っているが、それは役目ではなく、親友を探しに行きたいという理由からだった。
 彼の左耳にあるイヤーカフスは、その親友とおそろいのものだ。
 生死はわからない。
「役目か。じゃあ、その役目を無事に果たせるよう、協力させてくれるか?」
「協力?」
「門のところでのアレ。町の雰囲気がちょっと物騒になってるのは気づいてるだろ。神殿にも通うんだ、何かあった時には盾に使えるぜ?」
 冗談めかして言ったマティアスだったが、ルースは思いのほか真面目な顔で彼を見つめた。
「それ、本気で言ってるの? 私、本当に盾にするわよ──あんたが死ぬとわかっても」
 ギョッとしたのは二人のやり取りを見ていたコタロウとベルティルデだった。
 言われた本人はというと、笑みを引っ込めてこちらも真面目に返した。
「かまわない」
 もし本当にそんな事態になってしまったら、親友を探しに行くことは叶わなくなってしまうが、マティアスとてそう簡単に死ぬつもりはない。
 止めても無駄そうだと思ったコタロウとベルティルデは、顔を見合わせて肩を落とした。
「サスキア、そういうことだから」
「──承知しました」
 ルースに念を押されたサスキアも、言いたい言葉をひとまず飲み込み頷いた。
 変に緊張してしまった空気をほぐそうと、あえて明るい調子でコタロウが言う。
「箱船だけど、今月中にはほぼ完成だよ。来月から、少しずつ荷物が積み込まれていくんだ」
「そう。魔法具の積み込みは丁寧にお願いね。頑丈に作るようには言ってあるけど、それでも注意してちょうだい」
「大丈夫、みんな心得てるよ」
 笑顔で請け負うコタロウに、ルースも少しは安心したのか表情から硬さを抜いて頷いた。
「他に気づいたことがあったら言ってよ。細かいところなら対応できると思うから」
「そうね。できたら内部を少し見せてほしいんだけど、できるかしら」
「作業中のところ以外なら大丈夫だと思うよ。ただ、大勢で入るのは無理だけど」
 と、コタロウがサスキア達近衛兵を見やると、わかってると言うようにルースは了承した。
「同行者はベルだけ。案内はあなたとマティアスにお願いするわ」
「それならいいよ」
 コタロウは頷き、さっそくルースとベルティルデを箱船へと導いた。

 ルースが造船所内へ入った頃から、様子見に来ていた住民達の感情はさらに剣呑なものになっていた。
「あの姫が乗るってことは、貴族達も乗るのか?」
「造船所の奴らも乗るかもな……。何たって、大事な箱船を造る功労者だ」
「俺達は見捨てられるのかよ」
 疑惑や不安はやがて怒りとなり、目の前の造船所と箱船に向けられるようになっていく。
 門でその様子を見ていたステラは、警戒を強めた。
 彼女は何となく嫌な予感を覚えてここに立っていたのだが、どうやらそれは当たりそうだ。
 そして、一人の女が所長か姫に一言言わせてくれ、と門を守るステラ達に訴え出てきたことがきっかけで、門前は騒然となっていった。
「所長や姫に訴えたところで、どうにもなりますまい。どうか、少し気を静めてください」
 ステラは丁寧な対応で住民達に落ち着いてもらおうとした。
 もう一人の自警団員も、声を荒げたり力で応じたりすることはせず、何とかして宥めようと苦心している。
 と、彼らの矛先がステラ達にも向かってきた。
「あんたらも乗るのか? 騎士団じゃねぇが、伯爵の許可は出ての自警団の結成だろう。何か取り引きがあったんじゃないのか?」
「聞いたことありませんね。私達も皆さんと同じですよ」
「そんなこと言って、あなた、貴族だって聞いたわよ。自警団にも遊びで参加してるんじゃないの? どうせ捨てていく場所だからってさ!」
 感情的になってしまった人には、何を言っても悪く受け取られてしまうようだ。
 内心でため息を吐き、何も言い返さないステラの代わりに、もう一人の自警団員が言い返した。
「こいつはそんな奴じゃねぇよ。なぁ、アンセルさん!」
 侵入者の警戒に裏側へ見回りに行っていたアンセル・アリンガムが戻って来ていた。
「ステラさんは立派な自警団員です。さぁ、皆さん。ここであまり騒いでいると、今度は騎士団が来てしまいますよ」
「クソッ、馬鹿にしやがって! どうせ取り残されてここで死ぬってんなら……最初から、全部なかったことにしてやる!」
 激昂した男がステラに掴みかかる。
 それにつられるように周りも殺気立った。
「──燃えちまえっ!」
 石を包んだ布に火をつけた男が、それを振り回して造船所内に放り投げようとした。
「やめなさい!」
 掴みかかる男の手を払いのけたステラは、風の魔法で起こした突風を火を放とうとした男にぶつけてよろめかせる。
 その隙を逃さずアンセル達が男の手から凶器を叩き落とし、何度も足で踏みつけて火を消した。
 ところで、彼らの中にいつもアンセルの傍にいるルスタン・チチュキンの姿はなかった。
 この時彼は騒ぎの場から離れた、造船所の側面いた。
 聞こえてくる喧騒を気にしながらも、塀の向こうを見ようと背伸びをしたり飛んだりしている。
 そんなちょっと不審な彼に気づいたのは、遅れて様子を見に来たトモシ・ファーロだった。
「君、何やってるの?」
「うわぁっ。何だお前! 船を壊しに侵入するつもりか!」
 普通に声をかけたつもりだったトモシにとって、ルスタンの反応は異様に激しかった。
 びっくりして目を丸くしていると、今ここに詰めかけている住民達とは違って落ち着いているトモシに、ルスタンも肩の力を抜いた。
「な、何だよ、脅かすなよ」
「びっくりしたのはこっちだよ。こんなところでどうしたの。向こうはけっこうもめてるのに」
「ふ、ふん。あっちの騒ぎを抑えている隙に、手薄になった他の箇所から何か悪さしようとする奴が出るかもしれねぇだろ」
「なるほど」
 トモシはひとまず納得の姿勢を見せた。
「なるほどじゃねぇよ。お前、無害そうに見えるけど俺が警戒している怪しい奴候補に引っかかったんだからな」
「あ、ああ、そうか。けど、俺は本当にちょっと様子を見に来ただけだよ」
 トモシは軽く両手をあげて敵対の意志がないことを示す。
 ふぅん、と胡乱な目のままトモシを見るルスタン。
「ま、今のとこ箱船にちょっかい出すのは無理だろうな。俺達がいるし、今日は姫が来てるから、中には近衛兵もいるしな」
「労働者達も黙ってないだろうしね」
 そういうことだ、と頷くルスタン。
「だから、お前も余計なことは考えるなよ」
「俺は船をどうこうしようなんて思ってないってば。そういう強い疑心暗鬼が、この騒ぎの原因の一つでもあるんじゃないかな?」
 トモシの指摘に、気まずそうな顔をするルスタン。
「……疑心暗鬼にもなるだろ。箱船には全員が乗れるわけじゃねぇんだから。あーあ、やっぱ公国の奴が優先なのかねぇ」
 たいしたことではないのだが、この時トモシはふと、ルスタンはどこの出身なのだろうかと思った。
 そのことを聞いてみると、ウォテュラ王国だと返ってきた。
「ということは、アンセルさんと同じ?」
「まぁね。けど、住んでたとこが違うから、会ったのはここが初めてだ」
「あのさ……」
 本当ならリルダに聞こうと思ったことだったが、ルスタンはアンセルと親しいようだから一応聞いてみようと、トモシは彼に質問した。
「アンセルさんと伯爵に面識がある……なんて話、聞いたことないかな? その、ここでじゃなくて、アンセルさんの出身地とかで」
「ん? 何だそれ。そういう話は聞いたことねぇなぁ。そもそもアンセルさんはあまり故郷のことは話してくれないんだ。辛いことがあったみたいでさ」
「そうなんだ」
 その時、静まりかけていた門前の喧騒に再び火が付いた。
 怒鳴り声に加え、殴るような鈍い音も聞こえてきた。
「止めないと! ルスタンさん!」
「わかってる! ……おい、てめぇら! いい加減にしとけよ!」
「ああ、そんな言い方じゃ……」
 トモシの声はルスタンには届かなかった。
 
 門を突破しようとする過激な奴の襟首を、プティ・シナバーローズが引っ掴んで止めた。
「やめとけって。中に入ったら次は近衛兵達が相手だぞ」
「ちくしょう、納得できねぇ!」
「俺だって全部納得したわけじゃねぇよ。でも、ここで暴れたって意味がないことくらいはわかる」
 ずるずると引きずって男を門から引き離すプティの顔は、男と同様に険しい。
 そもそもプティは、今回の発表をリルダに一任したことも不満だった。
 港町のまとめ役は彼女だから適任と言えばそうなのだが、内容が内容なだけにその心労を思うと同情してしまう。
 思わず舌打ちがもれた。
「とにかく、今日はもう帰れ」
 こんなやり取りがあちこちで繰り広げられていたが、この騒ぎは伯爵からの伝言を持ってきたクラムジー・カープによってひとまず収まることになった。
 駆けつけたクラムジーは、伯爵家の紋章が押された紙を広げて声をあげた。
「箱船計画は、貴族のための計画ではありません!」
 何だ何だ、とクラムジーの近くにいた住民達が振り向く。
「箱船に乗るのは、航海に必要な技術と技能がある者だけです。それらがなければ、たとえ上位の貴族であっても、乗船資格は与えません」
 小さなざわめきが起こった。
 裏返せば、条件を満たしていれば身分に関係なく、乗船資格を与えられるということだ。
「出航の際、障壁は縮小されますが、現在魔法研究所が少しでも縮小範囲を小さくできるよう研究中です。後々の生活のことも、リルダさん達が話し合ってます」
 そのざわめきも小さくなり、大勢の視線がクラムジーに集まっていた。
 彼は圧倒されないよう、腹に力を入れて最後の一文を読み上げた。
「航海期間は約一年間です。……さて、航海に必要な技術や技能を持った人達を信用しないというなら……そして、そういった人達を押しのけて箱船に乗ったとしたら──生き残る可能性はいか程か?」
 静かに見据えられ、人々の興奮は完全に静まった。

◆第三章 造船所放火未遂事件その後
 イヴェット・クロフォードはアシル・メイユールに面会を求めたが、話し合い中だと言われ、代わりにアシルの護衛を務めているアイザック・マクガヴァンが対応に出てきた。
「お嬢様のことでお話があるとか」
 アイザックのこの言葉で、イヴェットはジスレーヌの身分を確信した。
 彼女はジスレーヌ・ソリアーノではなく、ジスレーヌ・メイユールなのだと。
「お嬢様が身分を偽り、私達と農作業をしていることはご存知ですか?」
「彼女の行動は、ある程度は把握しているよ」
「では、もしも身分が知られた場合、先の通達により不安定になった住民達の矛先がお嬢様に向けられるかもしれない……ということは?」
「これでも、お嬢様にはあまり町へは行かないようにと言ってるんだけど、どうも館の中は退屈らしくてね。特に、伯爵とケンカをしてからは当てつけるように外へ出るようになってしまった」
「ケンカ?」
 イヴェットは首を傾げる。
 ジスレーヌから父を心配するような言葉は聞いたが、不満気な様子は見たことがないからだ。
 しかし、アイザックが嘘をついているようには見えない。
 ということは、ケンカしていても父が気がかりということか。
 何をやっているのか、と心の中でため息を吐くイヴェット。
「お嬢様のことを気にかけてくれてありがとう。面倒だろうけど、危険が及ばないように見ていてくれると助かるよ。誰か人をつけられるといいんだけど、ひどく嫌がってね」
 凄い剣幕だったとアイザックは苦笑する。
「それでリルダさんに見ていてもらうよう頼んだんだ」
「ですが、あの人ももうあまり余裕はないと思います」
 そうか、とアイザックは思案する。
 もしかしたら、館に閉じ込める方法でも考えているのかもしれない。
 イヴェットとてジスレーヌにそのようなことをするのは望んでいないが、彼女が苛立った住民に傷つけられるのも望むところではない。
 何より……。
「お嬢様は、伯爵とここに残るつもりのようです。もし伯爵が望むなら、私がお嬢様の傍にいて場合によっては、無理にでも船に乗せましょう」
 うーん、とアイザックは困ったような顔をする。
「実は、ケンカの原因はそこなんだ」
 ジスレーヌは魔法に高い素質があるため、伯爵は箱船に乗り腕を磨きながら航海の役に立つようにと言ったらしい。ところが娘は大反発をして外に出るようになったと言うのだ。
 畑仕事に精を出すようになったのは、腐っていた彼女へのリルダなりの気遣いだったようだ。
 もっとも、リルダはほんの気分転換として勧めみたのだが、ジスレーヌはすっかり農作業に楽しみを覚えてしまっている。
 ここでイヴェットまでジスレーヌを箱船に押し込むような真似をしたら、さぞ恨まれることだろう。
(いざとなれば、それもやむなし……でしょうかね)
 生きていてほしいのは本心だ。
 ところで、予定とは大きく外れてしまったが、イヴェットにはもう一つ気になることがあった。
 ジスレーヌがもらしていた『亡き公王とのお約束』に関することだ。
 こうして門で話している以上、中に入ることは叶わなさそうなので、直接聞いてみることにした。
 とたん、アイザックはほんの少し表情を歪めた。
「手紙の内容は知らないけど、本来なら、ここにいるのは公王であるはずだった……。伯爵はずっとそのことを悔やんでるみたいだ」
 そう言ったアイザックも、深い苦しみを抱いているように見えた。

☆  ☆  ☆



 そんな騒ぎなどまだ誰も知らない頃、領主の館ではヴァネッサ・バーネットが伯爵と話し合いをしている最中だった。
 先日持ちかけた『予防プラン』についてだ。
 先日の通達により、ヴァネッサの目下の重要事項は、障壁調整の際に起こる人々の生気が使われるということだった。
 場合によっては死者も出るというその秘術から、一人でも多くの人の命を守るのが彼女の目標だ。
「どうして前の時に言ってくれなかったんだ……なんてことは言わないよ。もしあたしに先に知らせて言いふらしでもしたら、大変なことになってたかもしれないからね。ただ、今後は隠さないでほしいね」
「あなたのプランの邪魔はしませんよ。それ自体には賛成なのですから。今回のことは、ご容赦を。おっしゃる通り、発表前に混乱されては後々困るので」
「ま、そっちにはそっちの段取りがあるのはわかってる」
 気持ちを静めるように、ヴァネッサは息を吐き出す。
「ところでその秘術だけど、体力的に術に耐えられない人をはじくとか、消費される生気の量に差をつけるとか、何か対策はとれないものなのかい?」
「残念ですが、できません。障壁の調整で目いっぱいでしょう」
「……そんなこったろうとは思ってたけど」
 そうでなければ通達内容にもう少し救いがあったはずだ。
 ヴァネッサは、まだ湯気を立てているティーカップの紅茶を少し飲み、話を進める。
「それなら、人々の健康状態を今以上に良くするしかないか。健康管理は、基本的に自主的な行動が必要になるんだ」
「ふむ」
「そのためのノウハウを伝える講習会を開きたいと思う」
「良案ですね。一口に健康管理と言われても、私達にはピンと来ませんから」
 頷き言った後、アシルは少し思案した。
「講習会ですが、ログハウスを使って町の人と貴族と合同で行いませんか?」
 思案顔のまま告げられた言葉に、ヴァネッサは意表を突かれたような顔をした。
 実は、とアシルが理由を話す。
「先日のお茶会から、町の人との交流の必要性を口にする方が増えましてね」
 なるほど、と頷くヴァネッサ。
 そういう空気が生まれてきているなら、興味が失せる前に機会を持ったほうがいいだろう。
 障壁が縮小されれば、嫌でも近くで暮らすことになるのだ。
 お互いの溝を浅くできるなら、それに越したことはない。
「貴族には私から伝えておきます。リルダさんにもこちらから話を通しておきますので、港町のほうはお願いできますか?」
「いいよ。ログハウスを押さえとくのは頼んでいいのかい?」
「ええ。人が集まりますからね……警備の手もどうにか回しましょう」
 ひとまずまとまり、ヴァネッサは冷めてしまった残りの紅茶を飲み干した。

 クラムジーが造船所へ走り、イヴェットがアイザックと話し、ヴァネッサがアシルと打ち合わせをしている頃、館の厨房ではイリス・リーネルトによるクッキング教室が開かれていた。
 生徒はリック・ソリアーノとロシェル・オージェの二名。
 ロシェルは今日は体調が安定していたようで、イリスが面会を求めると恥ずかしそうにしながらも応じた。
 が、まさかパンケーキ作りを始めるとは思っておらず、エプロンをつけた今も戸惑いの表情を浮かべたままだ。
「パンケーキ……食べたいなら、言えば、作ってくれるよ」
「そうなんだろうけど、今日はみんなで一緒に作りたいと思って」
「私、作ったことない……」
「ぼ、僕も……」
 自信なさそうに視線をさまよわせるロシェルに続き、リックも不安そうな笑みで言った。
 二人とも貴族だ。そのあたりはイリスも予想していた。
「パンケーキはとても簡単だから、初心者向けだよ。きっと大丈夫」
 リックとロシェルは、不安です、と顔に書いたまま挑戦してみることになった。
 イリスの指示通りに、二人は材料を量り、生地を作った。
 リックは造船所の食堂で手伝うこともあるため、初歩的な作業はそれなりにできた。
 生地作りに苦労しているロシェルをイリスとリックで助け、どうにか三人分の生地ができあがる。
「けっこう、力がいるのね……」
 強張った腕をほぐしつつ、苦笑するロシェル。
 いつも食べている料理やお菓子は、それなりの労力が使われて作られているのだと初めて知った。
「調理器具も重いしね。さ、いよいよ焼くよ。……と言っても、これもよそ見しなければ大丈夫だよ」
 温めたフライパンに薄く油をのばし、生地を流し込む。
 しばらくすると、おいしそうな匂いが漂ってきた。
 ロシェルとリックが、待ち遠しそうに焼けていく生地を見つめている。
 イリスは器用にひっくり返してもう片面を焼き終えると、皿に完成したパンケーキを盛りつけた。
「後は、蜂蜜とかバターとかジャムとか……お好みでどうぞ」
「おいしそう! 次は僕がやってみるね」
 おいしくなぁれ、と唱えながらイリスの作業を思い出しつつ手を動かすリック。
 細かいタイミングはイリスが教えたので、リックに続くロシェルも失敗なく焼き上げることができた。
「うん……形はアレだけど、まあまあだよね」
「お母様にも、食べてもらおう、かな……」
「きっとびっくりすると思うよ」
 イリスが言うと、ロシェルは小さな笑みを浮かべる。
 もう始めの頃の不安の色はなく、達成感に満ちた顔をしていた。
「後で一緒に、食べようね。待っててね」
 そう言って、ロシェルはいったん厨房から出て行った。
 彼女が戻って来るまでの間、イリスとリックは片付けをする。
 使った調理器具を洗いながら、イリスは我慢が途切れたように不安を吐露した。
「障壁の調整のこと、聞いたよね。わたし達、どうなっちゃうのかな。死んじゃう人が出るかもしれないなんて、そんなの……」
 こわい、と口に出したら際限なく怖くなってしまいそうで、イリスはギュッと口を閉ざす。
 イリスには父がいる。他にも、付き合いのあるご近所さんがたくさんいる。
 何より今は──。
「もし、リックに何かあったら、わたし……」
「大丈夫」
 イリスの不安を断ち切るように、リックは言い切る。
「その、根拠はないけど……僕達はみんな無事で、箱船もちゃんと出航する。そう信じよう」
 リックは自分に言い聞かせるようにそう言った。
「わたし達は、みんな無事で……わたしも、リックも」
「うん」
「わたし、リックのこと好きだよ。ずっと一緒にいたい。だから」
 その続きは、驚いたリックがフライパンを落とした音にかき消されてしまった。
「ご、こめんっ。びっくりしちゃって、その、あの……」
 フライパンを拾うリックの顔は真っ赤だ。
 そして、持ち上げたフライパンで顔を隠しながら、
「ありがとう。僕も……」
 と、消え入りそうな声で返したのだった。
 少ししてご機嫌で戻ってきたロシェルが、フライパンを挟んで真っ赤な顔で向き合いながらもじもじしている二人を見ることになる。

☆  ☆  ☆



 クラムジーにより造船所前の騒ぎが収まりつつある様子を、少し離れたところから見慣れない少女が眺めていた。
 見た目は少女だが、少年のヴォルク・ガムザトハノフである。
 誰も知らないが、彼は本気で悩む時、女装をする癖がある。
 その悩みとは、自身の今後のことだ。
 何を選び、何を手放すのか──。
 選んだ結果、後悔しながらその道を歩くことになったとしても、今が節目の時だと幼いながらに感じていた。
 ヴォルクには今、姉と慕う女性がいる。
 彼女の力になりたいとヴォルクなりに頑張ってきたつもりでいたが、つい最近、力不足であることがわかった。
 さらに、彼女の幸せは、弟分であるヴォルクの傍では掴めないものだということもわかってしまった。
 それはとても寂しく悔しいことであったが、彼は次なる目標を立てることで気持ちを奮い立たせた。
(箱船に乗る資格か……私の魔力は役に立つ、はず)
 クラムジーの説得が耳に入り、そう思った。
 やがて喧騒は収まり、人々は散っていく。
 造船所周辺はいつも通りの静けさを取り戻した。
 物思いにふけりながらしばらく佇んでいると、門が開いて近衛兵に守られながらルース姫が出てきた。
 その集団に近寄り、ルースに話しかける人がいたため立ち話が始まった。
 ヴォルクも聞いてみたいことがあったので、彼らに近づいていくことにした。

 門から出てきたルース達に気づいたプティは、いい機会だと一団に接近した。
 先頭を歩くサスキアは近づいてくるプティに警戒を見せたが、彼が自警団の者だと名乗るとルースとの面会を許した。
 ルースに聞きたいことがあったプティだったが、いざ本人を目の前にしたとたん軽く言葉に詰まってしまった。
 思えば野外病院では、ついルースを叱りつけてしまったのだ。
 果たしてきちんと答えが返って来るかどうか。
 とはいえ、このまま沈黙していても仕方がない。
「あのさ、箱船出航時に想定されてることって知ってたのか?」
「知ってたわよ」
 プティが思っていたよりも、ルースの声は静かだった。
「じゃあ、もっと何かないのか? あまりにも唐突すぎるだろ。弱ってる人はどうなるんだ? その調整とやらの手法と相性の悪い人がいたら? 犠牲者が出ないような方法はないのか?」
 それがどんなに難しくても試すつもりでいたプティだったが、返ってきた答えは無情なものだった。
「術は人を選ばずに発動されるわ。隠れることも肩代わりすることもできない」
 何か言いかけ、口を閉ざすプティ。
 何をどう言えばいいのか、わからなくなっていた。
 重い沈黙が圧し掛かったその場に、子供の声が割り込んできた。
「船、押し出すために結界サイズ犠牲にするって、馬鹿なん! 残った人死ね言うてる同然なん!」
 ここでは珍しい褐色の肌をしたバニラ・ショコラだった。
 小さな闖入者に、ルースも少し驚いたような顔をしている。
「ちょっと、うちの考え聞いて」
「いいけど……結界って障壁のことよね?」
「うん、そう。それで、その障壁だけど、船を障壁間近まで運んで、船と障壁の端を包むように小さな水の障壁を張るん。そうして一部だけ中和して、船が障壁の外に出たところで船を包む結界を解除するんよ」
 どう? と、バニラはルースを見上げるが、ルースは「残念だけど」と言いたげに首を振った。
「えー。おねーちゃん、スゲー水の魔法使いなんでしょ? 何もしないうちから諦めるん?」
「諦めるも何も、そんな大掛かりなことはできないわ。本当に大変なのは海上に出てからなんだから」
 ケチ、と小さくこぼした後、バニラはめげずに次のことに考えを移す。
「じゃあさ、水面までの距離! これがどれくらいなのか、測ることはできるん? 例えば、ロープ付きの浮きを伸ばすとかして……」
「障壁は、それほど融通がきくものじゃないのよ。だから今まで誰もその距離を測れなかったの。下手に穴を開けようものなら、どうなるかわからないわ」
「でも、船は障壁の外に出るよ」
「そうね。障壁の融通がきかない部分を、ここに残る人達が補うのよ」
「じゃあじゃあ、うち達には何もできないん? ほんまに?」
 眉が八の字になっていくバニラに、
「見つけるんだ」
 と、プティが声を出す。
 するとそこに、もう一人、少女のような声が加わった。
「その通り。努力を惜しまない者にこそ、道は拓かれる」
 誰だ、と目を向けられ少女は名乗る。
「失礼。私はナデージュダといいます」
 品の良い微笑みからは、育ちの良さが窺える。
 ナデージュダはルースを見ると、真剣な顔をして問いかけた。
「ここには少数ですが、私のような子供もいます。力不足だといろいろと言われる私達ですが、それでも今の状況はわかっているつもりです。──私達に必要とされるものは何ですか?」
「私の考えでいいのね?」
 はい、と頷くナデージュダ。
「自分の力を過信せず、大人……そうね、学校の先生の言うことを聞きなさい。魔法が得意なら基本をきちんと押さえること。記憶力に自信があるなら、学校が認める本を読むこと。そうして、周りを良く見て考えて、目標に一歩でも近づいていくのよ」
 私はそうしてきたわ、とルースは静かに言った。
 彼女の後ろに控えていたベルティルデが、そっと目を伏せた。

◆第四章 試食会にて
 造船所の騒ぎから数日後、集会所で試食会が開かれた。
 少し前に来た伯爵からの不穏な通達を聞き流し、町をぶらついていたシャオ・ジーランには、この試食会の知らせは朗報であった。
 しかも、魚を食べられるという。
「もう何ヶ月も食べてない」
 というわけで、シャオは身なりを整えるといそいそと集会所へ足を運ぶのだった。
 彼同様、久しぶりの魚に期待する人はたくさんいた。
 調理室に入ったシャオは、用意された食材を目にしたとたん、自身の腹の音を聞いてしまう。
 もっと近くで見ようと食材が積まれたテーブルへと歩み寄る。
「ほう……これが水耕栽培で採れたという……そしてこっちが魚……!」
 シャオが感動していると、隣で小さく笑う声がした。
「なかなか良い出来でしょう?」
「ええ。とてもおいしそうです。これはあれですね……あーくあぱた? つあ?」
 何かを必死で思い出そうとするシャオから出てきた言葉に、きょとんとして首を傾げるマルティア・ランツ
「えーとですね、パセリ、バジル、葉野菜、トマトと魚を炒めると非常においしいのです。油は豆の油で……」
「そうなの? ちょっと待ってね。メモするからもう一度言って。作ったことはある?」
「多少は。それと、これをがれっとやまんとーに挟んでもおいしいでしょう」
「ふむふむ。……ねぇ、みんなと一緒に作ってみない?」
 こうしてシャオは調理台に立つ女性陣に混じることになった。
 まさか、がれっととまんとーの作り方まで教えることになるとは思わなかったが。
 楽しい雰囲気で調理が進められていく中、少し遅れてリルダ・サラインが顔を出した。
「遅れてごめんね。いい匂いね! 試食は庭を開放して、そこでやりましょう。──そこの食べる専門の人達、テーブルを並べるの手伝ってくれる?」
 あいよー、と主に奥様方にくっついてきた旦那衆が腰を上げ、調理室を出て行った。
 それからしばらくして、全ての準備が整った。
 少しずつだが様々な料理が並び、参加者の気持ちが華やぐ。おいしそうな料理を前にしては、どんな人だって心が浮き立つだろう。
 ちなみにシャオがマルティアに教えた料理だが、シャオの曖昧な記憶のまま『あーくあぱたつあ』と呼ばれるようになった。
 リルダの労いの一言から、お楽しみの試食会が始まった。
「水耕栽培の資料、ありがとう。丁寧にまとめられていて読みやすかったわ」
 料理を取り分けた皿を持ったリルダが、マルティアに声をかけた。
 あーくあぱたつあのおいしさにほっこりしていたマルティアが、その声に振り向く。
「よかった。少しごちゃごちゃしちゃったかなって思ってたの」
「充分よ。それで、申し訳ないんだけど、あれを移動させなきゃならないの」
「う~ん、いったん栽培をやめたほうが移動が早く終わりそうね」
「そうね。場所の確保は私に任せて」
「お願いします。……移動の人手、足りるかしら」
「その辺は、今日ここにいる男性陣に期待しましょう。特に食べる専門の男性陣にね」
 リルダが笑みを含んだ視線を送ると、数人が咽た。
 すると、そこにひょっこり顔を出したリュネ・モルが話に参加した。
「それは、私も含まれているのでしょうか?」
 力仕事はあまり得手ではありませんが……と、自信なさげに続けられた言葉に、リルダもマルティアも笑いをこぼす。
「食べていく? マルティア監督の水耕栽培で採れた野菜よ」
「それは良いですね。ご相伴に預かりましょう」
 リュネはリルダを探していて、町の人からここにいると聞いてやって来たという。
「引っ越し先のことです。ログハウスが良いかと思うのですが、その前にどれだけの人数が住まいを必要とするのか把握しておきたいのです」
 もっともなことだと頷いたリルダは、ここで暮らすことになった二年前に作成した住民名簿があることをリュネに言った。そこに記されている住所から、おおまかな人数は割り出せるはずだ。
「亡くなった人もいるけど、あまり変わってないと思うわ」
「念のため確認しましょう。この名簿の住所から移転した人もいるでしょうね?」
「そうね。届け出てない人もいるかも」
「裏通りの人も怪しいものです。アンセルさん達なら多少は通じているでしょうか」
「ええ。手伝ってもらいましょう」
 話はさらに進み、ログハウスに必要な材木や工具のことにも及んだ。
 リュネは箱船完成後の造船所から工具や労働者を借りようと提案する。町にも大工はいるので、建築方面の人手は足りそうだ。
「新しい家のことだけど、水の上に船を浮かべて生活している人もいたそうよ」
 大洪水前の世界の話を思い出すマルティア。水上家とも言うらしい。
「陸地に余裕がなくなりそうなら、それも考えたほうがいいわね。池なら波もほとんどないし」
 新しく建てるログハウスに必要な面積、畑や家畜のための面積、神殿など今まであるものの面積、森林だって残さなくてはならないだろう。
「後で地図を見ながら練り直しましょう」
 手伝ってね、とマルティアとリュネを見るリルダ。
 そういえば、とリュネが思い出したように話題を箱船に変える。
「例の通達ですが、箱船を浮かせてから障壁を弱めて出航させ、その結果障壁が小さくなるとのことでしたが、もしかしたら、先に障壁を最小にしてからエーヴァカーリナ池から出航させたいけれど、私達の感情を考慮して前者のように言ったのかもしれませんね。いきなり障壁が狭くなったら焦りますからね」
 とたん、リルダは目を丸くしてリュネを凝視した。
 あまりにもじっと見つめられ、さすがにリュネも居心地が悪くなる。
「私、おかしなことでも言いましたか?」
「それだと、船を浮かせることに使う労力が減るわね……!」
 何やら興奮し始めたリルダ。
「余った力は、障壁のほうに回せないかしら?」
 意見を求めるように見つめられるが、リュネもマルティアも専門家ではないのでわからない。
「今の予想だと、池の西端近くまで障壁が寄るのよね。そこまで船が通れる水路を作れば……」
 すっかり仕事モードに入ってしまったリルダが、食事を忘れて考え込んだ時、庭の一角から悲鳴があがった。
「リルダ! お前は人質だ! 伯爵を脅しつけてこんなバカげた方法はやめさせてやる!」
 ずい分と気が立ち半ば我を忘れた男が、人々を突き飛ばしながら突進してきた。

イラスト:じゅボンバー
イラスト:じゅボンバー

 とっさにマルティアがリルダの前に出てかばう。

 男がリルダを掴もうとした手は、マルティアの腕を掴むことになった。
 強い力にマルティアは顔をしかめる。
「邪魔すんな!」
 振り上げられた男のもう片方の腕は、リュネとシャオにより寸前で止められた。
「まあまあ、少し落ち着きましょう」
 シャオが穏やかに声をかけるが、男は腕を離せと暴れ出す。
 これには他の男達も加わってマルティアを開放し、この乱暴者を取り押さえることになった。
 リルダが急いでマルティアの腕の具合を見たが、幸い少し赤くなっている程度だった。
「たいしたことないわ。リルダさんに何もなくて良かった」
 気丈に微笑むマルティア。
 リルダは感謝と申し訳なさの気持ちをこめて彼女の手を握った。
「ありがとう。……でも、これで決めたわ。水路を開くことを検討しましょう。少しでも犠牲を減らしたい」
 箱船をどうやって浮かせるのかはわからないが、相当なエネルギーを必要とするはずだ。
 おそらく障害物のない空中から出航させることが安全だと伯爵は判断したのだろうが、マテオ・テーペのどこかにかかるその負担を減らせるなら、伯爵が納得するくらいの安全性を確保した代案を出したい。
「でもまあ、今は試食会ね。中断されちゃったけど、再開しましょう」
 ちなみに、取り押さえられた男は危ないからと詰所へ連れて行かれた。

☆  ☆  ☆



 夜の『真砂』で、女将の岩神あづまは客の相手をしながら、とある人物についての情報を集めていた。
 対象はルスタン。
 水の神殿で殺人事件が起こった夜、彼がどこにいたかを会話に交えて聞いていたのだ。
 今夜、自警団は夜の見回りに出ている。
 あづまには店があるため、本人に気づかれないように探るには今がちょうどいいのだ。
「あいつかぁ。あの夜のことは知らねぇが、そういやぁ事件の次の朝は何か変だったな」
「ビビッてたんじゃないの?」
「ありえるな。あいつ調子良くいろいろ言うけど、ビビリだからな」
「そう言うなよ。人が殺されたんだぜ。俺だっておっかねぇと思ったよ」
 集まった情報は、ほとんどがこんな調子だった。
 しかし、事件の次の朝の様子がおかしかったのは確実のようだ。
 だからといって、犯人と決まったわけではないのだが。
(でも、仮にそうだとして凶器の類はどうしたのかしら。どこかに棄てた? それとも燃やした? ……いいえ、それはないでしょうね)
 むやみに火を使えば、人に気づかれる可能性が高い。
 しかし、棄てたとしてどこにという疑問がわく。
 神殿から港町への道中か、世話になっているという農家への道中か。
 隠すとしたら森が考えられるが、その森は広い。
 ルスタンとて見つかりたくはないだろうから、埋めた可能性もある。
 となると、一人で探すのはやや無謀かもしれない。
(困りましたねぇ……)
 そんな思いが表に出てしまっていたのか、どうした、と客が心配してきた。
「何でもないですよ。そういえば、この前膝を痛めたとおっしゃってましたが、もうよくなりましたか? あまり無理はいけませんよ」
 あづまは微笑み、話題を変えた。

◆エピローグ
 リルダのところに警備隊長のバート・カスタルが訪れた。
 何やら神妙な顔をしている。
 仕事の手を止めて聞く姿勢をとると、バートは静かに話し始めた。
「伯爵のところで、サーナちゃんを連れて話し合いに行ってきた」
 サーナちゃん──サーナ・シフレアンは、つい最近まで犯罪者として囚われていた少女だ。
 話し合いの場にいたのは三人だけではなかったが、その辺りは軽く告げてバートは結論から言った。
「サーナちゃんは神殿に戻ることになった。身分は伏せたままで」
「そう……。ナディアの力になってくれるといいわね。彼女にはもう話してあるの?」
「ああ。先に寄って話してきた。そしたらアンセルがいてさ、サーナちゃんのことはあまり公にしたくなかったから追い出すような形になってな……悪いことしたな。町の警備を手伝ってくれてるのに」
 とたん、リルダの表情が曇る。
「アンセルさん、ナディアと話していたの? 何を話していたのかしら」
「箱船計画のことみたいだった。ほら、障壁が狭くなるだろ。どういう術が使われるのか聞いてたみたいだ」
 何とも言えない表情で頷くリルダに、バートは訝し気に首を傾げる。
「アンセルさん、何か引っかかるのよ。ただの勘なんだけど、どうもね……」
 アンセルに対し、特に不審点を見いだせていないバートは、リルダにどう返していいのかわからなかった。

☆  ☆  ☆



 その頃ジスレーヌは、畑で二人の若い男性と立ち話をしていた。
 彼らは荒れ畑復興計画参加者で、もうだいぶ畑仕事にも慣れ植えた野菜も順調に生長していることをとても喜んでいた。
「毎日の手入れはたまに面倒になるけど、でも、育っていく野菜を見ると頑張ろうって思えるんだ」
「そうそう。野菜に対して変かもしれないけど、かわいく見えてくるんだよね~」
 にこにこと楽しそうな彼らに、ジスレーヌも笑顔になる。
「おいしい野菜をたくさん収穫しましょうね!」
 笑顔を交わし合った時、足元が小刻みに揺れた。
 地震かな、と思った時、畑の一角が割れて下から岩の塊が突き上げた。
 ぽかんとするジスレーヌ達の目の前で、岩の塊はその形をはっきりとさせる。
「ゴーレム!?」
 本で見たことがある姿に、まさかと声をあげるジスレーヌ。
 傍らの二人は驚きのあまり硬直している。
 岩ゴーレムはジスレーヌ達を無視してゆっくりと港町を目指していく。
「そ、そっちはダメ!」
 完全に動転しているジスレーヌは地の魔法で妨害をすることも思いつかず、ひたすら呼びかけて岩ゴーレムを止めようとしているが、それで止まるわけもなく。
 まとわりつくジスレーヌをうるさく感じたのか、丸太のような剛腕が振るわれた。
「きゃあッ!」
 頭を抱えてうずくまるジスレーヌの横にめりこむ岩ゴーレムの腕。
 命中精度は悪そうだが、深く抉られた地面からとんでもない怪力であることを思い知らされる。
 震える少女の姿にようやく我に返った二人が口々に叫んだ。
「警備隊に連絡するんだ!」
「詰所へ急げ!」
 岩ゴーレムの歩みは非常に遅く、走れば充分追い越せる。
 ジスレーヌを抱えた二人は、足をフル回転させて緊急事態を知らせに詰所を目指した。

☆  ☆  ☆



 最初の手紙以降は、町へ使いに出た使用人等の手を経て届けられるようになった。
「何か妙ね……このアンセルという男」
 ルースは、放っておくつもりでいたアンセルについて調べてみることにした。
 そもそも一通目の手紙の時からおかしかったのだ。
 夜とはいえ、いったいどうやって館に忍び込みルースの部屋に来ることができた?
 手紙を預かった使用人にアンセルの容姿を聞き出し、館にいる絵の得意な者に描いてもらう。
 元騎士という話だから、館の誰かが洪水前のパーティなどで会っているかもしれない。
 ルースはウォテュラ王国出身の貴族から当たってみた。
「何で誰も知らないのよ……。もしかして、嘘ついてるのかしら」
 アンセルが、である。
 ダメ元でついでに公国の貴族にも聞いてみることにした。万が一ということもある。
 そして、情報は意外なところからもたらされた。
 クローデット夫人である。
 しかも、似顔絵を見て出てきた名前はアンセルではなかった。
「髭で素顔がわかりにくいですけど、この方、アルビストン男爵ではありませんか?」
「アルビストン男爵?」
「ええ。洪水で亡くなったと思っていましたが……。ですが、もし男爵だとすれば伯爵にとって厄介なことになりますね」
「どういうこと?」
 大きな声では言えませんが、と声を潜めるクローデット。
 彼女も噂程度として聞いた話なので確実性は低いのだが、男爵の娘は公王の側室に入ったが、病で亡くなったという。その亡くなる経緯に伯爵が絡んでいたというのだ。
 もしそれが事実に近いとしたら……。
 巡り巡って自分に何かが降りかかってくるかもしれない。ルースは今、伯爵の協力者として活動しているのだから。
(考え過ぎだといいけれど)
 ルースはクローデットに礼を言うと、深刻な表情でその場を後にした。
 彼女はこのことを自分一人の胸に秘めておくことにした。
 ところで、この会話をクラムジーが偶然聞いてしまっていたことを二人は知らない。

 領主の館のある部屋で、真剣に言い聞かせる声があった。
「いざという時は、私を盾にするのよ。あの男でもいいわ」
「そんなこと……」
「あんたには、何よりも大事な成すべきことがあるでしょ」
「……っ」
「見失っちゃダメよ。しっかりしなさい」
 声はやさしく励ますように言った。

 

個別リアクション

『止められない愚かさ』

『まだ試されているのか』

 



アクション指針
・岩ゴーレムを止める
・箱船出航手段を変更させるには
・ログハウスで行われる集会に参加する(警備含む)
・その他



こんにちは、マスターの冷泉です。
第5回にご参加いただき、ありがとうございました!

以下、アクション指針の補足です
・岩ゴーレムを止める
 ジスレーヌ達から連絡を受けた警備隊は、破壊する方針で動きます。
 人手不足は変わりないので、自警団の方もそうでない方も力を貸していただけると助かります。
 動きはのろいですが、力だけは強いので真正面から受け止めようなんて考えると重傷を負います。
・箱船出航手段を変更させるには
 リルダは、『箱船を浮かせずに、池から水路を作って障壁の外に出す』ことの有利性の提案を募集しています。
 伯爵が納得すれば、箱船を浮かせる分の魔法エネルギーを他へ回すことができます。
・ログハウスで行われる講習会に参加する(警備含む)
 ログハウスで開かれる健康管理に関する講習会には、貴族も参加します。
 参加する貴族はおおむね港町の人達に関心を持っていて好意的ですが、港町の一部の人はそうではありません。
 問題なく終わるよう、支えてくれる人を密かに募集します。
・その他
 これまで行ってきたことの継続を含み、シナリオに関係する内容でしたら何でもかまいません。

 神殿の謎に迫るシナリオは、川岸マスター担当のサイド側で扱われます。
 グランド側でこれに関するアクションを行っても、思うような結果にはなりませんのでご注意ください。

 第6回のメインシナリオ参加チケットの販売は8月21日から9月2日を予定しております。
 アクションの締切は9月3日の予定です。
 詳しい日程につきましては、公式サイトお知らせ(ツイッター)や、メルマガでご確認くださいませ。

 それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。