メインシナリオ/グランド第6回
『あなたのための希望のうた 第6話』
◆第一章 岩ゴーレム
 畑から突如現れた巨大な岩ゴーレムがゆっくりとした歩みで港町に向かっているという知らせは、すぐに町中を駆け抜けた。
 現場に居合わせたジスレーヌ・メイユールを抱えて警備隊の詰所に若い農家の二人が飛び込んで来てから、あっという間の出来事だった。
 その日、たまたま詰所にいた警備隊長のバート・カスタルは、慌てるあまり文法はめちゃくちゃでほとんど単語を並べるだけの三人の報告を、落ち着いた様子で聞いていた。
 ほどなくして詰所にトモシ・ファーロが駆け込んでくる。
「バートさん、その岩ゴーレムを停止させるか、止まるよう命令する方法はないの?」
 と、さすがに急いているせいかやや早口に尋ねた。
 バートは少し難しい表情で答えた。
「誰かに命令されているのか、たまたま埋まってたものが何かのはずみで起動したのかわからないからな……。命令されてるなら、そいつを捕まえて命令を解かせるのが一番確実だ。けど、探してる時間が惜しいから、中から魔法具を取り出すしかないな」
「魔法具で動いてるんだ……」
「たぶんな。魔力だけで岩ゴーレムを作って動かすなんて、ちょっと人外の域だと思う」
 トモシはジスレーヌが話した岩ゴーレムの特徴も合わせて、素早く作戦をまとめた。
「落とし穴に落として、魔法具を抜き取るか」
「ま、そんなとこだろうな」
 バートも同意したことで作戦は決まった。
 すると、強張った表情のままのジスレーヌが手を上げた。
「私も……行きます。地属性なので、落とし穴作るなら力になれるから……」
「さすがに危ないんじゃ……」
「いいえ。一部とはいえ畑を壊した岩ゴーレムは、許せません。止めないと」
 トモシの心配に首を振り、ぎゅっと唇を引き結ぶジスレーヌの決意は固そうだ。
 そうなると、若者二人も参加せざるを得ず……。
「地属性じゃないから、スコップで加勢するぜ」
 バートは、そんな彼らに申し訳なさそうな顔をした。
「悪いな。本来なら俺達が行くべきなんだが……」
 その時、たまたま戻ってきた隊員を一人呼び止めた。
「ジェンナーロ、緊急事態だ。トモシ達についてってサポートしてくれ。話は行きながらで」
 急なことにも関わらず、ジェンナーロは「りょーかい!」と陽気に返した。
 そして彼らは慌ただしく詰所から出て行った。

 その頃、イヴェット・クロフォードは町中をざっと巡り魔法に集中している者がいないか見て回っていた。
「いませんね……。ということは、昔にインプットされた命令かあるいは命令が空の状態か……」
 岩ゴーレムの目的は何なのか。
 それを知るために、あえて手出しせず見守るという手もあるが、町に入り込んで暴れられて怪我人でも出たらまずい。
 どうしたものかと思案していると、近づいて来る足音と共にトモシらしき声に呼ばれた。
「イヴェットさん、ちょうどいいところに! これから岩ゴーレムを止めに行くから手伝ってほしいんだけど」
「……そうですか、止めることにしましたか」
 イヴェットはトモシの周りの面々を軽く見渡す。
 そしてジスレーヌのところで目を留めると、わずかに眉をひそめた。
 ジスレーヌはその微妙な変化に気づき、精一杯胸を張る。
「私も行きます。地属性の魔法は得意ですから」
 何が何でも着いて来る雰囲気だ。
「無茶はダメですよ」
 そう言った後、イヴェットはジェンナーロに目配せをした。心得たように彼も頷く。
 それからイヴェットを加えた一行は、こちらへ向かっているだろう岩ゴーレムがいる畑への道をできるだけ早く走った。
「いた! どうやら暴れてはいないみたいだね」
「落とし穴はどこに作りますか?」
 駆けながら状況の説明と作戦を話したトモシにイヴェットが問う。
 トモシは前方の今は使われていない畑を指して言った。
「あの畑に作る。土が柔らかいから作りやすいでしょ。俺が誘導するから、即行で穴掘って。あれが全部落ちる穴は無理だと思うから、せめて片足だけでもはまるようなの頼むよ」
「任せてください。十秒で掘ってみせます!」
 ジスレーヌがダッと駆け出す。
「何かあれば加勢する。無理はするなよ」
 そう言ったジェンナーロに頷き、トモシは岩ゴーレムのほうへ走った。
 トモシが指した畑は、岩ゴーレムの進路から少しそれたところに広がっている。
「あまり奥だと誘導が大変でしょう。この辺にしましょう」
 イヴェットの提案で、落とし穴は道沿いに作られることになった。
 ジスレーヌは彼女が示したあたりに手をかざすと、穴をあけようと集中し始めた。
 ほどなくして、ボコッと土の塊がくり抜かれた。
 それを数回繰り返してジスレーヌが疲れを見せると、若者二人がスコップで交代した。
「ジスレーヌは休んでな。後は俺達に任せとけ」
「追加十秒で完成させてやる!」
 うおおおお、と猛然と穴を掘り進める二人。
 イヴェットがトモシの様子を窺うと、囮役にいつの間にかジェンナーロが加わっていた。
 二人はうまく連携して岩ゴーレムの気を引き続けている。
「トモシ、案外機敏だな!」
「逃げ足には自信があります。師匠の借金取りから逃げ回って鍛えられたから!」
 得意気なトモシに、思わず同情的な目を向けるジェンナーロ。
 その頭上で、岩ゴーレムが剛腕を振りかぶる。
「苦労してたんだな……。今度、何かおごってやる。いっぱい食え……うぉっと」
 ズドンッ、と振り下ろされた腕をかわすジェンナーロ。
 次はトモシが魔法で水を飛ばして岩ゴーレムを挑発する。
 まるで踊るように囮役をこなしながらも、二人は落とし穴の進み具合を見ていた。
 だいぶ深くなったようだ。
イラスト:雪代ゆゆ
イラスト:雪代ゆゆ
 そして、落とし穴へと導くように、イヴェットが水の魔法で地面をぬかるみに変えている。
 決して魔力に恵まれているわけではない彼女は、何度も魔法をかけることで確実に地面を変化させていた。
「そろそろ行くか」
「そうだね。うまく引っかかってくれよ……」
 二人は少しずつ岩ゴーレムを畑のほうに誘導する。
 ほとんど知性はなさそうだから、この岩ゴーレムは自分の状況はわかっていないだろう。
「落とし穴、できましたよ」
 イヴェットからの報告で、トモシとジェンナーロは誘導する速度をあげた。
 岩ゴーレムは進路をそらされていることにも気づいていないようで、まっすぐに落とし穴のほうに歩み寄っている。
 イヴェットやジスレーヌ達は離れて見守っていた。
 いつ来たのか、ジスレーヌの傍らにはヴォルク・ガムザトハノフが立っていた。
 胸の前できつく手を組み、「落ちて~っ」と祈るジスレーヌ。
 穴の大きさは充分で、落ちやすいように穴の前は広範囲でぬかるんでいる。
 あと十数歩も進めば、岩ゴーレムの腰の高さくらいまで掘った穴に落とせるだろう。
 しかし、ここに来て岩ゴーレムのなけなしの知性が働いたのか、あるいは自身の危険を察知したのか、敵は方向転換を図った。
「え、嘘……」
 唖然とするトモシ。
 そっちじゃねぇ、と騒ぐ若者二人。
 ジェンナーロは剣を抜くと、岩ゴーレムに軽く斬りつけた。
「ほらほら、こっちだっつーの! 来いよ、木偶の棒!」
「おいこら、のろま野郎! お前に捕まるなんて、太陽が西から昇るくらいありえねぇよ!」
「アリンコだって逃げられるな!」
 二人の若者も続いて悪口を放つ。
「自分の鈍足加減を知りなさい。町に着く前に日が暮れますよ」
 イヴェットも棘のある言葉と同時に小石を投げつけた。
 トモシもそれに乗った。
「あの借金取りに比べたら、ナメクジ同然だね!」
 ついでに、おちょくるように顔面に水鉄砲よろしくピューッと水を吹きかけた。
 さすがにこれには怒ったのか、岩ゴーレムは港町へ向いていた体をトモシ達に向け直した。
「そうそう、それでいいんだ。もうよそ見しちゃダメだよ」
 ズシン、と踏み下ろされる巨大な足との間合いを見誤らないように、トモシは笑みを浮かべながらも気を抜かない。
 じょじょに落とし穴との距離が縮まっていく。
 ついに、その地点に来た。
 岩ゴーレムの正面でまるで穴を隠すように気を引いていたトモシ達が、二人を叩き潰そうと振り下ろされた太い岩の腕を左右に分かれてよけた。
 次にどちらを追おうか迷い、トモシのほうへ足を踏み出す。
 その足が地面に触れる直前を狙い、ヴォルクが風の魔法を打ち付けた。
 足が掬われるような形になった岩ゴーレムは転ぶまいと踏ん張ったが、かえってそれが仇となりぬかるみに足を滑らせる。
 目前には、落とし穴が大口を開けて獲物を待っている。
「落ちてー!」
「落ちろーッ!」
 願いは叫びとなって表れ──。
 岩ゴーレムは片足を落とし穴に突っ込み、そのまま崩れるように全身を落とし穴に沈めた。
 その重量に、ズズン、と足元が揺れた。
「おお、やったな! あいつは体が固そうだから、穴からは出てこれないだろう」
 ヴォルクの言う通りで、岩故に股関節が固く這い出るのに必要な角度に足を開けないのだ。
 しかも運の良いことに、武器である剛腕を存分に振るえないような態勢で落ちていた。
「よし、今のうちに魔法具を抜き取っちゃおう」
「どこにあるのかしら。頭でしょうか、胸部でしょうか」
 張り切るトモシに、イヴェットが冷静に疑問を口にする。
「たいていは胸部だと思うんだけど」
 ジェンナーロの言葉で、胸部に穴をあけてみることに決まった。
 岩ゴーレムができるだけ動かないよう、ジスレーヌの地の魔法で穴の内部に岩を固めて押さえつけ、男達が各々の獲物を胸部に突き立てる。
 やがて、推測通りに魔法具が姿を覗かせた。
 トモシが一気に引き抜くと、岩ゴーレムは形を失いただの土になった。
「やれやれ。これで脅威は去ったね」
 魔法具は、トモシの手に握れるくらいの大きさで、ヒトのような形をした金属に魔法鉱石を埋め込んだものだった。
 見た目は単純だが、それがどんな構成になっているのかはわからない。
 トモシの手元を覗き込むイヴェットは、念のためジスレーヌに聞いてみた。
「岩ゴーレムの使役者かこの魔法具の持ち主に心当たりはありますか?」
「いいえ。このようなものは初めて見ます。それに、私とあのお兄さん方が話している時に、他に人はいませんでした」
「そうですか。……ジェンナーロさん、この魔法具をインス所長にお見せしてもいいですか?」
「ああ、かまわないよ。あの人なら有効利用してくれるだろうからね」
「いえ、あの岩ゴーレムの怪力には目を見張るものがあります。もしあれをこちらの命令通りに使えたならと思いまして」
「そりゃあいい。新居作りだので力仕事が増えるだろうし。今なら神殿にいると思うよ」
「ありがとうございます。さっそく訪ねてみます」
 何かわかったらリルダに知らせると言い、イヴェットは水の神殿へと急いだ。
 トモシは行くところがあると言って、ジェンナーロと一緒に港町へ。
 残った四人は畑を元通りにすることにした。
 ジスレーヌの魔法で穴を埋め、そこからは人力で土を均していく。
 そうしながら、ジスレーヌはヴォルクに話しかけた。
「勉強は進んでますか?」
「ああ。姫に言われた通り基礎からみっちりやり直してる。箱船の乗船資格がほしいからな」
「箱船に……。そうですか。乗れるといいですね」
「レイザもびっくりの成績アップだ」
「ふふふっ。レイザ先生もきっと喜んでくれますね」
「ただなぁ……机にかじりついてるってのは、どうもな……体がうずくって言うか」
「なるほど、確かに座学ばかりでは退屈になってしまいますよね。私も同じです。それでこうして外に出てみたのですが、今ではすっかり畑仕事にはまってしまいました」
「何だ、ジスレーヌもサボリだったのか」
 ジスレーヌはごまかすように笑った。
 それからしばらく作業を続けていると、町のほうからリルダが血相変えて走ってきた。
 そしてジスレーヌを見るなり、
「怪我は!?」
 と、叫びにも似た声をあげた。
 どこも怪我してません、と答えたジスレーヌを、リルダはぎゅっと抱きしめる。
「もう、ジェンナーロさんから話を聞いた時は肝が潰れるかと思ったわよ。畑仕事を手伝うのは止めないけど、あまり危ないことはしちゃダメよ」
「はい……ご心配おかけしました」
 さすがにしおらしくなったシズレーヌから離れると、リルダはヴォルク達に礼を言った。
「岩ゴーレムを止めてくれてありがとう。おかげで町には何の被害も出なかったわ。みんなも怪我はなさそうだし、本当によかった」
「チームワークの勝利だな」
 得意気にヴォルクが言う。
「ところで岩ゴーレムを動かしていた魔法具のことなんだけど、畑に知らない人の姿とか見たことなかった?」
 ジスレーヌは若者二人と顔を見合わせた。
「岩ゴーレムが現れた時、私達三人でおしゃべりをしていたのですが、他に通りかかる人はいませんでした」
「その時、魔法を使った?」
「いいえ。出現前も後も使ってません」
「そう……。じゃあ、岩ゴーレムが現れた時にたまたまあなた達が居合わせただけなのね……」
 魔法具の出どころの調査はまだ続きそうだ。
 リルダは集会所で会議の途中だったそうで、すぐに戻っていった。
 ジスレーヌは、自分を心配して会議を放り出させてしまったのだと反省した。
「反省がすんだら、後でリルダさんの手伝いでもしたらどうだ?」
 ヴォルクのアドバイスに、ジスレーヌは素直に頷いた。

 水の神殿に急いだイヴェットは、事情を説明して魔法研究所所長のジョージ・インスに魔法具を見てもらっていた。
 調べが終わるのをエントランスで待つことしばし、再び姿を見せたジョージの見解では、あの岩ゴーレムは特に命令らしいものは受けていなかっただろうということだった。
「では、改めて命令して岩ゴーレムとしてまた動かすことはできますか?」
「できるじゃろうな。ただし、この魔法具の構成ではあまり複雑なことはできんぞ」
「ええ、かまいません。重いものを運ぶ手助けにと思っているだけですので」
「それなら問題なしじゃ。すまんがこれはわしが預かっておく。必要になったら取りに来てくれ。できればお前自身に来てほしい」
 その意味を、イヴェットはすぐに察して頷いた。
 あの岩ゴーレムは頭は悪そうだったが怪力だった。あの拳に殴られたら、大怪我ではすまないはずだ。
 そんなものを形成できる魔法具を、誰かれかまわず渡すことはできないのだろう。
 イヴェットは急な相談にも関わらず対応してくれたことに礼を言い、神殿を後にした。
「さて、このことをリルダさんに話しておきますか」
 港町へと歩き始めた。

 狭いと言いながらも、人ひとりを探そうとするとなかなか広いマテオ・テーペだが、トモシは運良く目的の人物を見つけることができた。
 その人物は、自警団の仲間と楽し気におしゃべりをしながら市場を歩いていた。
「あ、ルスタン君。ここにいたんだ」
 声をかけたルスタン・チチュキンは、トモシに気づくと足を止めた。
「お。あんた、造船所で会った……」
「覚えててくれたんだ。今、ちょっとだけいいかな?」
「いいよ」
 ルスタンは仲間達に先に行くように言うと、トモシに向き直った。
 トモシは、岩ゴーレム事件のことを話して聞かせた。
「な、何で畑に魔法具が? 誰かが落としたのか?」
「落としたのか埋めたのかはわからないけど、魔法具って高価なものなんだよね? 裕福な貴族でも、そういくつも持てないようなものなんでしょ」
「ま、俺みたいな平民には縁のないものだな」
 うんうん、と頷くと、トモシは唐突に切り出した。
「何か、心当たりはない? 例えば、うっかり畑に落としちゃったとか」
「まさか、俺が疑われてんのか?」
 ルスタンは心外だというふうに眉を寄せた。
 違う、とトモシは首を振る。
「そうじゃなくて……ん~、あのさ、この前箱船を覗こうとしてたのは、姫達を見ようとしてたの?」
「……へ!? な、何だいきなり」
「ひょっとして、神殿を覗いてた男性ってのもルスタン君?」
「人を覗き魔みたいに言うなっ」
 ごめん、と言いながらもトモシはその推測から導き出した結論を口にした。
「もしかして、何かを知っていて、姫達に探りかコンタクトを取ろうとしてない?」
「あんたが何を考えてるのか、さっぱりわからん。けど、これだけは言っておく。俺は、断じて覗き魔じゃねぇ! 絶対違うからな! 勘違いすんなよ!」
 声を大きくしてトモシに迫ったかと思うと、ルスタンはまるで逃げ出すように走り去っていったのだった。

◆第二章 水路出航の利点とは
 時間は少し戻り、警備隊の詰所に岩ゴーレムの件が報告された頃、水の神殿の奥にある休憩室では、箱船出航手段の変更が話題に上がっていた。
「箱船の出航手段の変更について、今リルダさん達が話し合ってるんだって」
 マティアス・ リングホルムはそんなふうに切り出した。
 ルース・ツィーグラーは、それで、と目で続きを促す。
 その視線から、マティアスはルースも興味を持っていることを感じ取った。
「まだちゃんとまとまったわけじゃねぇそうだけど、船を浮かさずに水路を使ったらその分のエネルギーを、障壁に回せるんじゃないかって話だった」
「水路ね……なるほどね……」
「もし、リルダさん達の意見がまとまったら、賛成してくれるか?」
「その前に、その意見書を見てみたいわ」
「わかった。話してみる」
 マティアスは頷き、約束した。
「箱船には、今まで障壁を支えてきた姫さんやベル、それに他の魔術師も乗るんだろ? だとしたら、ただでさえこの場所を維持できる人が少なくなって大変になるんだろうから、なるべく力を温存できるならその方がいいんじゃないかなって思ったんだ」
「ええ、私もそう思うわ。でも、早めにまとめたほうがいいわね。箱船はほぼ完成して、荷物の積み込みが始まってるから」
 言った後、不意にルースは黙り込んだ。
 その顔が妙に深刻だったため、マティアスは心配そうに覗き込む。
「何か気になることでもあるのか?」
「水の魔術師の殺害犯人、まだ捕まってないのよね……」
「そうだな」
「犯人の目的が何であれ、今はとにかく慌ただしい時期だわ。造船所も港町も。伯爵も、箱船の乗組員のことで館の貴族達ともめてるみたいだし」
 ルースが何を言おうとしているのか、その言葉から読み取ろうとしたマティアスだったが、結局はよくわからなかった。
「えーと、マテオ・テーペ中が慌ただしいとして、それがいったい……?」
 少なくとも、ルースの周囲はいつも近衛兵ががっちりガードしている。
「つまり、箱船を乗っ取るなら積み荷の搬入が終わった直後じゃないかと。一段落ついて、伯爵だって少しは気が緩むでしょう。あの人に何かすることもできるかもしれない」
「伯爵の心配してるのか?」
 ふだんルースから伯爵の話題が出ることはほとんどないため、マティアスにはかなり意外なことだった。
「今あの人がいなくなったら困るでしょう。それだけよ」
「ふぅん。ところで姫さん、ちょっと疲れてねぇか? ちゃんと寝てるか?」
 何となくルースの顔色が悪いような気がして、マティアスは心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫よ。ちょっとね、ジョージ所長に相談して開発してた魔法具が、もうじき完成しそうなのよ。それで……」
「魔法具の開発?」
 マティアスは驚き、目を丸くする。
 ルースは少し照れくさそうに続けた。
「正確には、改良なんだけど。言い出したのはベルでね……」
 自分達を始め多くの水の魔術師がいなくなった後のマテオ・テーペで、水の確保を少しでも助けるための魔法具だという。
「あと少しだから、一気に仕上げたいのよ」
 そうか、とマティアスは頷いた。
「けど、あんまりやり過ぎんなよ。じゃ、そろそろ行くよ。また後でな」
 マティアスは水の神殿を出ると、集会所へと歩き出した。
 彼と入れ替わるように、ナディアとエリス・アップルトンが部屋に入ってきた。
 ルースも仕事に戻ろうと立ち上がると、遠慮がちながらエリスに引き止められた。話したいことがあるそうだ。
 ルースは、再び椅子に腰かける。
 軽く息を吐いて椅子に座ったエリスに、ナディアはやさしげな眼差しを向けた。
「ずい分上達しましたね。もうだいぶ、思ったように魔法を使えるようになったのではありませんか?」
「言われてみると、失敗が減ったように思います」
 エリスの返事に、微笑むナディア。
「何か心配事がおありのようですが、そればかりに気を取られていてはもったいないですよ。自分の成長を見逃してしまいますからね」
「じ、自分の成長の自覚は難しそうです……」
「たまには、前の自分を振り返ってみるといいかもしれませんね」
 前の自分……と、エリスの脳裏に魔法学校での日々が思い浮かぶ。
 今も在籍中ではあるが、たいていはここで障壁維持に従事している。
 その魔法学校も、箱船出航時には海に沈むと聞いた。
 とたん、エリスの表情は曇った。
「巷では、箱船の出航時に障壁を狭めなければならないとの噂が流れているそうですが、本当でしょうか?」
「本当よ。私達は覚悟しなければならないわ」
 ルースがきっぱりと答える。
 ナディアも、憂いた目で言った。
「……この神殿を中心に、わずかばかりが残るだけでしょう」
 そう言った彼女に、いつもの軽やかさはなかった。
 エリスはうつむいた。
「どうにもできないことなのですか?」
「障壁の縮小はやむを得ないと思います。ですが今、少しでもその障壁を広く保とうと動いている人達がいます。私も……相談を受け、微力ながらできるかぎりを尽くしました。後は、みんなの意見を伯爵が聞き入れてくれればいいのですが」
「そうですか……」
 はたして自分に何ができるのだろう、と悩んだエリスは、ふと造船所を思った。
「あの、ナディアさん。造船所の方とお知り合いなのですよね? わたしを紹介していただけませんか? 力仕事は無理ですけれど……」
「それはかまいませんけど……エリスさんがいなくなってしまうと寂しいですね。たまには、ここにも顔を見せに来てくださいね」
 惜しむナディアに、エリスはすみませんとただ頭を下げた。
☆  ☆  ☆


 岩ゴーレムの件でリルダが会議を一時抜けた間も、出席者達は意見書のまとめを行っていた。
 マルティア・ランツがリルダに頼んでナディアから聞いてきた話によると、箱船の出航には水の魔術師達を中心にかなりの力を消耗するらしい。
 それには、箱船を宙に浮かせる分も含まれているため、もし水路からの出航が叶えば余力を障壁に回せることは確実だということだった。
 さらにマルティアはクラムジー・カープの元も訪ね、空中出航と水路出航でそれぞれの予測使用エネルギーを計算してもらえないかと頼んだ。
「なかなか難しい依頼だね」
 クラムジーは苦笑したが、頼みは引き受けてくれた。
 そして、今日の会議までにおおよその数字を出して来てくれたのだ。
 具体的な数字を見たことで、水路案がより現実的になった。
 マルティアはその数値を比較するように示しながら言う。
「水路から箱船を出す方法にすれば、下方向の力の安定を水に任せられ、相性も水と船なので良いと思います」
 リュネ・モルが同意するように頷く。
「この環境では自然現象による波がありませんからね」
「後は、いざ出航という時に地震が起きなければいいな」
 アンセル・アリンガムの言う通り、心配事と言えばそのことだった。
 いつ頃からか頻発するようになった地震については、レイザ・インダーが調査中だとリルダが言っていた。
「こればっかりは気にしても仕方ないわよね……。出航時には何も起きない。そう考えておきましょう」
 マルティアが前向きにまとめた。
 それから彼女は、水路にすることのもう一つの利点についても意見した。
「作った水路からさらに水を引き、周りを畑にすることもできるでしょう。先を考えた時に充分に意味のあることだと思います」
「私も同様に考えます。農地拡大だけでなく、水路のために掘り出した土で池の干拓もできましょう。一石二鳥ですね」
 さらにリュネはエーヴァカーリナ池の図を広げ、水路を引く予定地に印を入れる。それは二か所あった。
 一つは現在の障壁の西端まで水路であり、もう一つは障壁が最小範囲に収まった場合の水路だ。
「池近くのほうは言わずもがなですが、長い水路のほうは障壁が広く保たれた場合のものです。はたしてどれほど縮小を食い止められるか、残念ながらこの数値からではわかりませんので」
「ふむ……。だが、さすがに現在の範囲のままということはないだろう」
「ですが、どれくらいの距離までという見込みも立たないのですよね……」
 アンセルとリュネのため息が重なる。
 そこに、外出していたリルダに加え、イヴェット、マティアス、ナディアがそろって入ってきた。
「すぐそこで会ったのよ」
「リルダさん、それでははしょりすぎです。ここへ向かうのに乗ってきた馬車に、皆さんをお乗せしたのです」
 言い直したナディアの説明も、いろいろ省かれていた。
 四人がそれぞれ席に着くと、マルティアがここまで出た意見をまとめて話した。
 静かに頷いたイヴェットが、掘削工事には岩ゴーレムが使えるだろうことを報告した。
「今回騒がせた岩ゴーレムの核となっていた魔法具の調整を、インス所長が引き受けてくださいました。所在を明らかにしておくため、魔法具の貸し出しは私にのみ行われることになりました。ご了承ください」
「やったわね! すごい力なんでしょう? これで工事が楽になるわね。ところで、ミニサイズでもいいんだけど、二体目は造れないかしら」
 期待に目を輝かせるマルティアに、リルダが苦笑気味に答える。
「さすがにそれは無理だと思うわ。魔法鉱石自体が貴重だから。一体使えるだけでもかなりの幸運よ」
「あはは……さすがに、そう都合良くはいかないか」
 マルティアは肩を竦めた。
 それから、マティアスからはルースの伝言が伝えられた。
「意見書がまとまったら見せてほしいってさ。この方針には、姫さんも賛成だそうだ」
「ほぅ、姫様が。では、工事期間中のメシについてもお頼みできますかな」
 造船所には食堂がある。
 労働者達がそこで食事をとれるように、水路工事に従事する者達にも安く食べられる場がほしい。
「路地裏でくすぶっている方々も含め、当面の間食える仕事を提供できれば、衣食足りて礼節を知るの言葉のよう、希望が生まれ治安の回復が期待できると考えます」
「そうね、畑で生長の早い野菜を育てたり水耕栽培で収穫した分もあるから、食糧にはいくらか余裕ができたはず。伯爵にかけあってみましょう」
 リルダが手元の紙にメモしていく。
 それから話は障壁のことに戻った。
 水路出航で余力ができた場合、縮小はどれくらいになるのか──。
 ナディアは、クラムジーが出した数字を見ながら慎重に答えた。
「約束はできませんが、最初に示された範囲より一回りは大きく保てるかもしれません」
 その言葉に場の空気が明るくなる。
 もう一本の水路はそれを元に設計されることになった。
「ところで……伯爵が提示した出航計画のほうですが、こちらは箱船にかかる水圧に対する影響を最小限に抑えるためのもの、と考えてもよろしいのでしょうか?」
 リュネの質問に、リルダとナディアは考え込んだ。
 先に口を開いたのはナディアだった。
「正直なところ、わかりません。わかっているのは、その案がもっとも確実で安全だということだけです」
「安全の対象は箱船なんだけどね」
 リルダが苦笑する。
 もしかしたら、確実で安全を保証する何かがあるのかもしれない。
 そうだとしたら、この意見書もどこまで受け入れてもらえるか──。
 それでも諦めるわけにはいかない、と意見書は丁寧にまとめられていった。
 そして、ようやくリルダの前に書類が整い、会議は終わりを告げた。
 占めていた緊張感が緩み、誰ともなく大きく息を吐く。
「後は私が清書して伯爵のところへ持っていくわ」
「結果が出たら、すぐに教えてください」
 もちろん、とリュネに頷くリルダ。
「それでは、私は失礼しよう……」
 席を立ちかけたアンセルを、マルティアが慌てて引き止める。
「クラムジーさんから、館のお菓子を分けてもらったの。少しずつだけど、みんなで食べましょう。とてもおいしそうなのよ」
 いそいそとテーブルの上に広げた包みの中には、小ぶりなナッツタルトが数枚収まっていた。
 人数分はありそうだ。
 ふわりと、ほのかに甘い匂いが香る。
「今、ハーブティを淹れてきますから、先に召し上がっていてください」
 そう言ってマルティアは会議室を出ていった。
「おいしそうね。いただくわ」
 リルダが手を伸ばすと、他の面々も続いてナッツタルトを手に取った。
 ほどなくしてマルティアが戻ってきて、それぞれの前にハーブティが置かれた。
 他愛のない話ばかりの、ゆったりとした時間が流れた。

◆第三章 ログハウスでの健康管理講座
 ヴァネッサ・バーネットの提案で行われることになった健康管理がテーマの講習会には、平民を中心に外国人も貴族も多くの人が集まった。
 領主の館の貴族からはクローデット・オージェを始め、数人の貴族が参加していた。
 動機は、単なる興味だったり現状に危機感を持っていたりと様々である。
 この講座のことは、貴族側には伯爵から伝わっており、その際に無意味に平民を刺激しないようにと言い含められていた。
 彼らのことは館内で上位の発言力を持つクローデットがまとめている。彼女も平民のことは気にもかけないタイプだが、無駄な争いは好まないからだ。
「こちらのことはお任せください。実りある時間になることを願いますわ」
 クローデットは貴族達を連れてログハウスを訪れた時、ヴァネッサにそう言った。
 ヴァネッサも挨拶を快く受け入れ、さらにその集団の中にベルティルデ・バイエルとクラムジーの姿を見つけて声をかけた。
「今日は、よろしくお願いします」
「来てくれたんだね。姫は神殿かい? よかったら彼女にも教えてやってくれ」
「ええ。そのつもりです。姫様だけでなく、神殿の方や館の方々にもお伝えしたいと思っています」
 クラムジーもヴァネッサに挨拶をしておいた。
「勉強しに来たんだ。よろしく」
「こちらこそ。あたしもしっかり教えるから、わからないことがあったら遠慮なく聞いてほしいな」
 一方、表面上はログハウス全体の警備員として参加しているが、実質は平民の動きを注視しているステラ・ティフォーネ。
 自警団の何人かが、ここの警備に赴いている。
 貴族に関しては、わざわざ館から出向いてくるのだから、愚かな行為に走る者はいないはずだとステラは信じていた。
 彼女は入口付近で内外に気を配っていた。
 時間になり、ヴァネッサは壇上に立った。
「みんな、今日は忙しい中ここまで足を運んでくれてありがとう」
 彼女の声が響き渡り、ざわついていたログハウス内が静かになっていく。
「今日ここでは、健康管理のためのノウハウを覚えていってもらうよ。よく聞いて、きちんと理解してほしい」
 こうして始まった健康管理講座で、ヴァネッサが重要なこととして最初に言ったのは『自分の健康を自分で維持する、高める』という意識を明確に持つことだった。
「この意識を持つことで、どうやって健康を維持するのか、高めるのかという考えに発展していく。そうして自主的に心身を高めておくことは、とても理に適っているんだ」
 平民の集団の中に、プティ・シナバーローズもいた。
 箱船出航時の影響で人々は生気を吸い取られ、場合によっては命を落とすという状況をどうにかしたいと思いつつも、妙案が浮かばなかったことを彼は悔しく思っていた。
 そこで耳にした、この講座。
 健康管理が対策になるとはどういう理屈なのだ、とそれを確かめるために参加した。
「ふだんから状態を高く保っておくことで、生気を吸われても、しっかり余力を残すことができるし、それはつまり生き延びる可能性が上がるということだ」
 確かに、いざその時に体力が低下していては、生き残れたはずのものが死んでしまったということになりかねない。
 プティは真剣な表情で、ヴァネッサの一言一句も聞き漏らすまいと集中した。
 ヴァネッサは、大きく二つの項目に分けて説明することにしていた。
「まず一つ目は、生活習慣だ。これには、起床就寝時間を整えることが挙げられる。簡単だけど、夜更かし朝寝坊が習慣になっている人には、改めるのがなかなか難しいんだ」
 これには、何人かの貴族と平民が苦笑した。
 貴族なら照明の魔法具で、平民ならランプの明かりなどで、ついつい深夜まで盛り上がってしまう。
 よくあることだ。
 ヴァネッサは、そんな彼らのために夜更かし朝寝坊がいかに健康を損なうことであるか、また早寝早起きがどれほどの利益であるかをわかりやすく説明した。
 それから、正しい手洗いなどの清潔習慣について話した。
「病気は著しく体力を低下させるからね。けど、これは体を清潔に保っておくことで、ある程度は防げる」
 プティはできる限りメモをした。
 聞けばどれも当たり前のことだが、さぼろうと思えばいくらでもさぼれるのも確かだ。
「意識を高める、か……」
 なるほどと思った。
「少し休憩にしよう」
 ヴァネッサの言葉に、場の空気が緩んだ。
 クローデット達は外の空気を吸いにログハウスを出て行った。
 対してベルティルデとクラムジーは、これまでの内容を復習していた。
 と、そこに険悪な感じの声が投げつけられた。
「おいおい、貴族の犬になった奴がいるぜ」
「本当だ。いったいどんな手で取り入ったんだろうなぁ、あのセンセーは」
 ベルティルデが目元を曇らせた。
 目の前のクラムジーが町の一部の人から悪く言われているのを、彼女は知っていた。
 口の悪い彼らに一言言おうとするのを、クラムジーが「大丈夫」と制する。
 しかし、そのことがかえって彼らを煽ってしまった。
「そうか、メイドちゃんを落としたのか! 優しそうな娘だもんな~、何て悪い奴なんだ」
「うまいこと言って、自分を売り込んだんだな?」
 ニヤニヤと挑発的な笑みで近づいて来る二人組。
 周りは遠巻きに様子を見ているだけだ。
 面倒ごとに関わりたくないだけか、それともクラムジーに思うところがあるからなのかはわからない。
 緊迫した空気が流れた。
 どう切り抜けようか、とクラムジーが思案した時、
「その辺にしとけよ。浮いてるぞ、お前ら」
 と、プティが割って入ってきた。
「絡むんなら、講座が終わってからにしろよ」
「うるせぇよ、引っ込んでろ」
「少し落ち着けって。どんな立場であれ、箱船出航時のアレの影響は平等にくるんだろ。この講座に来たのだって、何らおかしい話じゃない」
 そもそも、今まで裕福に暮らしていた貴族達ではなく、クラムジーに絡むあたりに二人組の気の小ささが窺えた。
 すると、今度はプティに突っかかってきた。
「お前、ずい分余裕だな。何か秘策でも持ってんじゃねぇのか? 生気吸い取られても絶対に死なない秘策をよ」
 プティは隠しもせず呆れ顔になる。
「そんなのがあったらここに来てるかよ……。ほら、ちょっと外に行こう」
「隠す気か? おい、押すなこら!」
 軽く振り回した男の手がプティを打ったが、わずかに顔をしかめただけでプティはさらに男の背を押す。
 もう一人がプティを引き留めようとしたが、その手はステラに止められた。
「話は外で聞きましょう」
 外の見回りから戻ってきたところ、この騒動を目撃したのだ。
「もうじき後半が始まります。皆さんの邪魔をするならお引き取り願います」
「邪魔してんのはこの男だろ!」
 二人組の一人が、クラムジーを指さして大声をあげた。
 やれやれ、とため息を吐くプティ。
「その人はおとなしく講座に参加して、さっきまではベルティルデと復習してただけだろ」
「……少し、外の空気を吸いに行きませんか?」
 落ち着いているが有無を言わさぬ雰囲気のステラに引っ張られるようにして、二人組は外に連れ出されていった。
 最後まで、鋭い目つきでクラムジーを睨んだまま。
 彼らの姿が見えなくると、ベルティルデがホッと息を吐いた。
「ありがとう。助かったよ」
 クラムジーがプティに礼を言う。
「いや、手を上げるようなことにならなくて良かった。あの通達のせいで、あいつらも気が立ってたんだと思う」
「……」
「今だって、みんな不安なままなんだ。どうしたらいいのかわからなくてさ」
 クラムジーが答えあぐねているところに、慌てた様子でヴァネッサが駆けつけた。今までクローデット達に捕まっていたのだ。
「ステラから聞いたよ。あんた達、何もされなかったかい!?」
「わたくしは何もありませんが……」
 と、クラムジーを気遣うように見るベルティルデ。
「こちらも何もなかったよ」
 顔色一つ変えずに言ったクラムジーを、ヴァネッサはじっと見つめる。
 クラムジーは、本当に何もなかったのだと穏やかに微笑んだ。
「あれくらいは、想定内だから」
「あんたがそう言うなら。大事にしないでくれてありがとう。けど、あんまり我慢しすぎるなよ」
 適度に吐き出しな、とヴァネッサは労わるようにクラムジーの肩を叩いた。
 その頃ログハウスの外では、ステラに諭されたのと頭が冷えてきたのとで、すっかりおとなしくなった二人組がたたずんでいた。
「八つ当たりだって、わかっちゃいたんだが……抑えられなかったんだ」
「こんなご時世で、平民出で領主の館で働けるあいつへの、妬み僻みって奴さ……」
 片方はうなだれ、片方は自嘲している。
 ステラはそんな二人を静かに見守っていた。
 一通り反省が済んだ二人に、ステラは講座に戻るように促す。
「しっかり反省したなら、ヴァネッサさんはあなた方を拒みはしないでしょう。お戻りなさい」
 二人は申し訳なさそうにステラに頭を下げ、ログハウスに戻っていった。
 後半は、気力回復と応急手当についてだった。
「休息を軽んじないこと!」
 この一言には、心当たりがある人が多数いた。
「一日一回は風に当たり、夜には月を見上げて、心を健やかにしてくれ。適度な休息は、次の仕事の効率も良くなるしね」
 ヴァネッサが最後はやわらかく言うと、聴講者達の空気もやわらいだ。
「最後に応急手当だ。傷は放置せず、正しく止血、洗浄すること。風邪の兆しを感じたら、喉を温めるといいよ」
 この応急手当は、実際のやり方も教授した。
 騒ぎを起こした二人組も、熱心にヴァネッサの手の動きを見ている。
「確か、ハーブに体を温める効果のものがありましたね」
 ヴァネッサはクローデットの呟きを拾った。
「詳しいのかい?」
「かじった程度ですけれど。館のお庭で育てていましたよね、ベルティルデさん」
「ええ。お茶だけでなく、お料理にも使っています」
「そのハーブ、絶やさないでいてくれるとありがたいな」
 お任せください、とベルティルデはヴァネッサに頷いてみせた。
 こうして、講座は終了した。

◆第四章 慌ただしくとも流されずに
 ナディアからの手紙を読んだ所長のフレン・ソリアーノは、坊主頭をつるりと撫でて明るく笑った。
「ここはむさい野郎ばっかだからな、女の子が来てくれたらきっと喜ぶぜ」
「は、はあ……」
 大き目のローブを無造作に着込み、目元をほとんど隠している前髪にあまり手入れのされていない髪、年齢も年齢だ……はたして男達が喜ぶかどうかエリスには自信がなかったが、少なくとも目の前のフレンは喜んでいる様子だ。
「お前さんに力仕事は無理そうだから……おーい、コタロウ!」
 遠くへ向けてフレンが人の名を呼ぶと元気の良い返事があり、ほどなくしてコタロウ・サンフィールドが小走りにやって来た。
「新入りだ。姫さんの部屋を見せてやってくれ。女の子の目線の意見をもらってこい」
「りょ、了解しました。それじゃ、行こうか」
 二人はフレンに見送られて箱船のほうへと歩いた。
 毎日熱心に造船作業に従事してきたコタロウは、この頃にはもうフレンに次いで箱船に詳しい作業員に育っていた。
 箱船に途中も何回か呼び止められ、確認を求められていた。
 航海中のルースの寝室となる部屋は、こじんまりとしたものだった。
「ベッドが二台あるのは、侍女のベルティルデちゃんと同室になるからなんだ」
「侍女と一緒のお部屋に……。家具も小さなものなのですね。本当に必要最低限のものだけがしまえるような」
「うん。全部ルース姫からの要望なんだ。寝られる広さがあればそれでいいって。飾りなんかもいらないって言われてさ、みんな戸惑ったんだよね」
 ルースの覚悟が表れた部屋だった。
「そうですね……角を……家具の角を丸くするのはどうでしょうか? 船が揺れた時に、もしぶつかったら思わぬ怪我になるかもしれませんし」
「なるほどね……」
 コタロウはポケットから紙片の束を引き抜くと、エリスの意見をメモした。
 エリスは箱船の予定航路について尋ねた。
「ああ、それね。前に所長も混じってご飯食べてた時に話題になったことがあったんだけど、陸地が残っているのかさえわからないからルース姫任せだって言ってた」
「え……? い、いいんですか、それで」
「俺はそれほど魔法が得意でもないからよくわからないけど、ルース姫くらい力があると何か感じるのかもしれないね」
 箱船から出たエリスは、今日は好きに見学していいと言われた。
 一方コタロウは、予定していた積み荷等のチェックを行った。
 搬入済みのものとこれから搬入するものの内容が合っているか、魔法具類の設置に不備はないか、ボートは付いているか、補修などに使うための資材と工具は充分か……。
 一ヵ所ずつ丁寧に確認をしていく。特に不備はない。
「それから……」
 チェック項目を記したメモをめくる。
 コタロウの足は食糧庫へ向かった。
「おっ、コタロウ! サボリか~?」
 積み込み作業を行っていた男性が、コタロウに陽気な声を投げかける。
 コタロウは苦笑しながら通り過ぎ、食糧庫の確認を済ませるとフレンのところへ戻った。
 いつも外で声を張り上げているフレンは、今は所長室にいた。
 お腹を壊したような顔をしながら、苦手な事務仕事をしているところだった。
 事務仕事の時、フレンはいつもこんな顔だ。
「所長、海図作成の道具一式はどうなりました?」
「おお、数日後には届くぞ。旧世界の地図と一緒にな」
「そうですか。それと、ロープは?」
「ああ、ここと海上の距離を測るんだったか? どのくらいの長さかわからないようなロープは難しいな。俺も気になるところではあるが……ま、できるだけ長いのを用意するから、収納場所の確保を頼む」
「わかりました」
 ふと、顔を上げたフレンがニヤリと笑う。
「な、何ですか?」
「いや、お前さんもすっかり頼もしくなったと思ってな。最後まで頼むぜ」
「ええ、精一杯やりますよ」
 コタロウは所長室を後にした。

 岩ゴーレムが使えるかもしれないという知らせは、オーマ・ペテテを喜ばせた。
 学校や図書室の貴重品や書物などを運び出すのはともかく、旧天文塔にある人工太陽の射出機の運び出しをどうやろうかと頭を悩ませていたからだ。
 ジョージによれば、人の手も借りるが岩ゴーレムで運べるだろうとのことだった。
 となると次は、書物などの置き場所がほしいところだ。
 そこでオーマが目をつけたのは、造船所だった。
 箱船が出てしまえば、それまでに使っていた倉庫がいくらか空くだろう。
 その一つを使わせてもらえないかと考えたのだ。
 そうして訪ねたフレンの口からは、
「かまわねぇよ」
 と、あっさり許可が下りた。
「荷物が多いなら人手も貸そう。そっちの準備が終わったら連絡くれ」
 話が早く済んだので、オーマは報告ため神殿に向かった。
 神殿には人工月の打ち上げで協力したエリカ・パハーレも来ていた。
「造船所の倉庫、一つ空けてくれるって」
「本当? それは助かるね。ここに作るって言っても、新しい家を建てるほうが優先だからね。その間、さすがに野ざらしってわけにはいかないし。エントランスに置くわけにもねぇ……」
「人手も貸してくれるみたいだ」
「おお、太っ腹!」
 ふと、オーマは『新しい家』という言葉で思い立った。
「エリカは今、自宅に帰ってるの? それともここで寝泊りを?」
「その日によるかな。あんまり遅くなった時は、ここや研究所に泊まっていくよ。ちょっと物騒だしね……」
 水の魔術師の殺人犯は捕まっていないし、この神殿を探っているらしい者もわかっていない。
 確かに、夜遅くに出歩くのは控えた方がいいだろう。
「何なら、家まで送っていくなりするけど」
「え? 大丈夫だよ、今まで何もなかったし……」
「送ってもらえ」
 オーマの申し出に少し焦るエリカの言葉を遮り、ジョージが重い声で言った。
「今は皆の心が不安定じゃ。用心に越したことはない。オーマ、頼んだぞ」
「ああ、うん、任せて」
 エリカの意志はあっさり無視されて、ジョージにより事は決定してしまった。
「エリカは確かアパートで一人暮らしだったな。何ならオーマに不寝番でもしてもらえ」
 それはちょっと……、と、オーマとエリカの声が重なった。
☆  ☆  ☆


 魔法学校の門は日中は開放されているため、誰でも入ることができる。
 だから、バニラ・ショコラも誰にも咎められずに敷地内に入ることができた。
 彼女は、ここで教師をしていると聞いたある人物に会いに来たのだが、うろうろしている間に別の教師に呼び止められた。
「君、迷子か?」
「迷子じゃないよ。おにーしゃんは誰なん?」
「俺はハビ・サンブラノだ。ここで教師やってる。誰かに会いに来たのか?」
「レイザおにーしゃん、どこなん?」
「ああ。あの人なら今日は……あれ? どこにいたっけな? とりあえず、ここにはいないよ」
 バニラはがっくりと肩を落とした。
「まあまあ。けど、あの人忙しいみたいだから、会うのはなかなか難しいかもな。俺で良かったら相談に乗るよ」
 バニラは、人の良さそうなハビの顔をじっと見上げた後、同じ先生だしと思いダメ元で聞いてみることにした。
「あのね、町の子達の噂で聞いたん。先生のとこに暗号の本があるって」
「暗号の本~?」
 ハビは視線を宙にさまよわせ、思い当たるものはないか記憶を探った。
「うち、これでもいろんなこと知ってるん。古い書物も読めるよ。暗号の本の解読に、きっと役に立てるん」
「……ああ、そういややたらと小難しい魔導書があったなぁ」
 バニラはハビの服を引っ張って、どこにあるのかと急かした。
「図書室だよ。連れてってやるから少し落ち着こうな。それにしても、あんなもん、さすがに君には読めないと思うけどなぁ」
「見てみないとわからないよ」
 ハビの案内で図書室に着いたバニラは、そのままその魔導書のある棚まで連れて行ってもらった。
 これだよ、とハビが取り出した書物は、思っていたより薄かった。
 開いてみると、細かい字がびっしりと詰まっている。
 バニラはじっとページを見つめた。
「学生以外は校舎内には入れないけど、図書室なら一般人でも入れるから、いつでも来たらいいよ」
「ん~、この本、暗号なん?」
「生徒達には暗号本て呼ばれてるよ。難しすぎて」
「それたぶん、うちが見たいのと違う……」
 バニラは本を戻すと、一通り本棚を見て回った。
 けれど、彼女が求めている本はここにはなかった。
「う~ん……」
 腕組みして考え込む少女を、変わった子だなと思いながらハビは眺めていた。

◆第五章 アシルとキンバリーと
 畑仕事を終え、リルダの手伝いでもしようと考えて集会所を訪れたジスレーヌは、迎えに来たアイザック・マクガヴァンにより領主の館への道をしぶしぶと歩かされていた。
「帰っても退屈なだけです……」
「まあそう言わずに、今日ぐらいは伯爵の目の届くところにいてあげてください」
 さすがに岩ゴーレム事件に遭遇したことは、アシルも肝を冷やしたらしい。
 そう言われてはジスレーヌもおとなしくするしかない。
 とぼとぼとアイザックの後をついて歩いていると、彼を呼び止める声があった。
「急に呼び止めてすみません」
 たおやかな微笑を浮かべ、書物で見た東方の服装をした美人。
 ジスレーヌはすっかり見惚れていた。
「あたしは居酒屋兼飯処『真砂』の女将をしている岩神あづまと申します。騎士団長のアイザックさんとお見受けしますが……」
「よくご存知ですね。俺に何かご用でも?」
 アイザックはぽかんとしているジスレーヌをさりげなく引き寄せて、あづまに問いかけた。
「ええ、実はその……」
 と、そこであづまはチラリとジスレーヌを見やった。
 さすがに今から話すことを、子供に聞かせる気はなかった。
 察したアイザックが、ジスレーヌに先に帰るように言った。
 彼女も、聞いてはいけない話なのだと気づき、会釈しておとなしくその場を去った。
 小さな背を見送ったあづまは、アイザックとの距離を少し詰めると声をひそめて手短に告げた。
 あづまが言ったことは、アイザックに強い衝撃を与えた。
 息を飲むアイザックはしばらくあづまを凝視し……ゆるゆると首を振った。
「もしそれが本当だとしても、会ったばかりのあなたを信じるには足りないものが多過ぎます」
 下手すれば伯爵の命に関わることだ。護衛を務める者として容易に受け入れることはできなかった。
「彼は、本名をキンバリー・アルビストンと言っていました。爵位は男爵で、娘さんが公王様のご側室だったと」
「アルビストン男爵? 生きていらっしゃったのですか……」
 しかもアンセルは少し前まで館で働いていたのだ。
 すぐ近くにいたのに気づかなかったことに、アイザックは何とも言えない気持ちになった。
「わかりました……。ですが、自警団の皆さんは巻き込まないでください。館の者達と無駄に血を流すことになりかねませんから」
「では、伯爵との対面の場はご用意してくださるのですね?」
「ええ。男爵のことは伯爵も気にしてましたから」

 こうして二人によって設けられた席で、何年ぶりかの再会がはたされた。
 向かいに座るアンセルの顔は、アシルも何度か見かけていた。
「案外、わからないものなのですね……」
 アシルは自分に呆れていた。
 対して、アンセルの表情は険しい。
「あなたには、きちんとお伝えしなければと思っていました。もう、お二人ともいなくなってしまいましたから」
「いまさら何を」
 ふだんの穏やかさが見えないアンセルを、横に座るあづまがそっと手を重ねてなだめる。
 この場を設けたことをあづまから聞いた時、アンセルはひどく驚き責めるような視線で彼女を睨んだ。
 しかし、あづまもこれ以上アンセルに罪を重ねさせたくないという強い思いがあったため、引き下がったりはしなかった。
 結局、アンセルはここに来たわけだが、それは伯爵を非難することが目的だからだ。
「かつて、あなたは私の娘を見殺しにした。そして今も、ここに住む大勢の人を見殺しにしようとしている」
 悔しさを押し殺すようなアンセルの訴えに、アシルは、やはりそう思われていましたか、と小さく息を吐く。
 同席しているアイザックが、不快そうに目を細めた。
「見殺しにしたわけではありません。あの方を医者に診せた時にはすでに病はもう手遅れなところまで進んでいたのです。そうなるまで、隠していたのですよ」
 体調が悪いことを何故こんなになるまで隠し続けたのかと、報告を受けた時アシルはひどく悔いた。
 アンセルの娘は故公王の側室だったのだが、王宮に入って数年して病にかかった。
 彼女は倒れるまでそれを隠したため、周囲には急死のように映っただろう。
 その話は人伝てに広まっていくうちに、病に侵されていた側室は治療もされず放置されて死んだ、というふうに捻じ曲げられていった。
 アンセルの耳にも、そのように届いた。
 怒ったアンセルは公王に真相を問い質しに行こうとしたが、その頃公王は外国へ会議に出ていて不在だった。
 そうこうするうちに大洪水が起き、公王は亡くなったのだ。
「病気になるような暮らしをさせたんじゃないのか? 嫁ぐ時は悪いところなど一つもなかった」
「いつ病を得たのかはわかりませんが、侘しい暮らしをさせたことはありません。公王も、彼女をとても愛していましたし。あの頃は、ウォテュラ王国や他国との会議でほとんど寝る間もありませんでしたが、時間が許す限り傍にいらっしゃいましたよ」
「では、何故そんなに我慢して……」
 苦しそうに拳を握りしめるアンセル。
「心配させたくなかったのでしょうね」
 あづまがそっと言った。
 その通りでしょう、とアシルも頷く。
 病がわかってから一週間後くらいに側室は亡くなった。
 アンセルは力なく目を閉じ、うなだれた。
 あづまは慰めるように、丸められた背をやさしく撫でる。
 しばらくして、ぽつりとアンセルが告げた。
「水の神殿の魔術師殺害を命じたのは私だ。処罰するがいい。だが、他の者に罪はない」
 アシルとアイザックは視線を交わし合う。
「……何故、魔術師の殺害を?」
「あなたから箱船を奪ってやろうと思ったのさ。ルース姫を引き込んでね。だが、あの姫はなかなか強情だ。見せしめに魔術師を一人殺しても揺らがなかった」
「姫の覚悟を見くびっていましたね」
「……箱船の本当の目的は、移住地を探すことではないという話が上がっている。私は、それは真実だと思っているが、考えを改める気はないのか?」
 顔を上げたアンセルの目には、力が戻っている。
 アシルは薄く笑った。
「移住地を探さないわけではありませんよ」
「ふん。私がやらなくとも、誰かが船を奪いそうだな」
「さて、あなたへの処分ですが」
 アシルは強引に話を打ち切った。
「これまで通り自警団をまとめて治安維持に努めてください。殺害の実行犯については、後で罰を言い渡しますので、お名前や住所を教えてください。あづまさんは特に何もありませんのでご安心を。最後に、ここで話したことはここだけの話にしておきましょう」
 ルスタンを処罰することで大きな混乱を避ける方をアシルは選んだ。
 アンセルが処罰されれば、彼の身分や背景がどこからか漏れるだろう。身分はともかく、背景については彼はそれを望んでいないはずだ。それに、自警団の存在は、港町ではすでに確固としたものになっている。
 箱船計画の件があったとしても、しばらくはおとなしくしているだろうとアシルは見た。
 部屋を出るアンセルは、とても苦い表情をしていた。
 港町への道を辿りながら、あづまはアンセルにかける言葉を探していた。
 しかし、先に声をかけたのはアンセルのほうだった。
「何だか気が抜けてしまったな。恥ずかしい話だ。すべて私の思い込みだったとは」
「真実なんて、案外そんなものだったりしますよね」
「娘が、不幸でなかったのならそれでいい……」
 アンセルは思い出を辿るように遠くを見た。
 そして、次の瞬間には表情を引き締めて言った。
「けれど、箱船の目的のことは何とかしたいな」
 二人は今も搬入作業が行われているだろう造船所を眺めた。

◆第六章 エピローグ
 ログハウスで開かれた健康講座から数日後、港町の人々に変化が見え始めた。
 誰が言い出したのか、運動するのも体に良いらしいという話が広がり、朝と夕にジョギングやウォーキングをする人が増えたのだ。
 おかげで港町に活気が出てきたという。
 貴族でも、男性はたしなみの一つとされる剣術の稽古を再開する人もいるそうだし、女性も室内で軽い運動をしているという話だ。
 特に貴族の夜のお茶会は格段に減った。
 命を削ってまでやるものではない、という判断だった。
「地上に戻ったら、存分に遊びましょう」
 というのが合言葉らしい、とジスレーヌが言っていた。
 ところで、人工月が照らす夜、一日の仕事を終えた女性達がウォーキングを楽しむそうだが、同時に痴漢も増えたとかで警備隊と自警団が頭を悩ませているという……。

 そんなある日、アシルの目の前にリルダが例の意見書を持ってきた。
 目を通したアシルは、緊張した面持ちで返事を待つリルダにほろ苦く笑う。
「失敗は許されませんよ。特に最近は地震が多い……万が一、大きな揺れが起こったために水路を走っている最中に事故が起こる……などという事態にはさせないでくださいね」
「もとよりそのつもりです」
 数秒間、二人は睨み合うように視線を交わらせた。
 やがて、緊張を解きアシルが話を進める。
「現場の指揮ですが……」
「責任は私が負います。補佐に推薦したい人がいます」
 リルダは事務に長けたリュネの名前を挙げた。
 他にも力を貸してくれる人はたくさんいるとも。
「それにしても、岩ゴーレムですか……。どなたのものだったのかはわかりませんが、大切に使ってください」
「持ち主が名乗り出た時は、何とかして協力してもらいます。それと、新居のほうですが……」
 工事の工程表と、必要な木材の調達先を示す図を広げるリルダ。
 水路工事と新居建設はほぼ同時に行われる。
 厳しいスケジュールになるが、みんなで協力してやるしかない。
「双方の現場近くで食事を出そうと思うんです。送っていただける食材にも限度があるでしょうから、簡単なシチューやスープとパンくらいになると思いますけど……」
「わかりました。食材の届け先が決まったら教えてください。造船所の食堂とのかねあいもありますし、同程度の値段で販売しましょうか」
 二人はしばらく打ち合わせを続けた。

 その日の夜、リルダ、ナディア、アンセルは箱船の真の目的について話し合った。
「移住地捜索を第一にできないものでしょうか」
 ナディアの願いはそれに尽きる。
 箱船が出航し障壁が狭まれば、残された人々は今以上に苦しい生活を強いられるはずだ。
 体力が弱ったところにさらにかかるストレスで、命を落とす者が出ないとは限らない。
 アンセルも気持ちはナディアと同じだ。
「箱船は必ず帰って来て、新たな暮らしの場をもたらしてくれる……そう信じるなら、残される人々もがんばれるだろう」
「だからこそ、伯爵はそう思わせるような言動をしているんでしょうね」
 リルダは悩むように眉間を揉む。
「この洪水を静めること……それができれば、山に逃げ込んだりして助かったここより多くの人が助かるでしょう」
 感情を抑え込んでリルダは続ける。
「たとえ何年かかっても、洪水がおさまってもっと多くの人々が助かるなら──ここの犠牲は小さなものでしょうね」
 現在考えられる残った陸地は、南のアルディナ帝国だ。広がる山岳地帯になら、きっとここより多くの人がいることだろう。
 とはいえ残された陸地はほんのわずかだと思われるため、地属性の魔法活用に長けた者達の力で何とか守られていると考えられている。
「リルダさんは、このままでいいと?」
「そうじゃないわ、ナディア。ただ、そういう考え方も理解できてしまうというだけ」
 うつむいたナディアは、先日耳にした特別な魔法鉱石──聖石のことを思い出した。
 けれど、まだいろいろと不確かなことを口にすることはできない。
「水路出航に変えることができたように、これも変えることができるかもしれない。もっといろんな人の意見を聞きましょう」
 ただし、下手に広まると暴動になりかねないし、あくまで憶測であることから、限られた人だけで話し合おうということに決まった。
 この日はこれで解散となり、家路への暗い夜道を月明りを頼りに歩くアンセルの前に、すっとルスタンが現れた。
 彼はじっとりとアンセルを睨んでいる。
「箱船を奪うなら、今じゃねぇんスか? どうして何も言わないんスか? 自警団のみんなは、きっと力を貸してくれる。今ならナディアだって協力してくれるだろ」
「聞いてたのか……」
「アンセルさんに会いに行ったら、たまたま……」
 盗み聞きするつもりはなかったが、結果的にそうなってしまった。
「アンセルさんの計画は間違ってない。実行するべきっス……! きっとこれが最後のチャンスなんだ。俺も探り入れられてるっぽいし。──姫の周りのあいつらも、準備は整ってるっス」
 思い詰めたような顔で言い放ち、身を翻すルスタン。
 すぐに追いかけたアンセルだったが、彼の姿は闇に紛れて探し出せなかった。
 ルスタンの様子から嫌な予感を覚えたアンセルは、自警団員に呼びかけて彼の捜索を依頼した。

 翌日、再びリルダを通して伯爵から知らせがあった。
『箱船の乗組員を若干名募集』
 リルダがアシルに確認したところ、必要な乗組員を選出した結果、席に空きができたという。
「年齢、性別問わず募集します。応募用紙に必要事項を記入して、期日までに私に提出してください。応募者多数の場合は、その中から選出されます……身分関係なく」
 障壁縮小とはまた違った震撼を人々にもたらした。


個別リアクション
『箱船の目的』



◆アクション指針
・食事の用意に参加する
・もし箱船の目的が移住地捜索が第一ではないのなら……
・ルスタン捜索に加わる
・痴漢は許さない
・その他(これまでの継続を含む、シナリオに関することなら何でも)

◆連絡事項
イヴェット・クロフォードさん
岩ゴーレムに必要な魔法具を、ジョージ・インスからすでに預かっていることとしてアクションをかけることができます。一体のみ使用できます。簡単な命令のみ従いますが、イヴェットさんが近くにいる時のみ有効です。



こんにちは、マスターの冷泉です。
今回もご参加いただき、ありがとうございました!

まず、箱船乗組員に応募したい方へお知らせです。
応募する場合は、アクション冒頭に「◎」印を入れておいてください。
末尾に記入されているとカウントされませんので、お気を付けください。
応募しない方は、何も記入しなくてかまいません。

以下、次回アクション指針の補足です。
・食事の用意に参加する
 新居建設と水路工事の各現場近くに、作業員のための簡易炊事場を設置し、スープやシチューを作ります。パンは他で作ったものが運ばれてきます。
・もし箱船の目的が移住地捜索が第一ではないのなら……
 移住地捜索を第一にしたい方の考えを聞かせてください。
 場合によっては箱船計画が見直されるかもしれません。
・ルスタン捜索に加わる
 身分、立場に関係なく関わることができます。
・痴漢は許さない
 どう許さないのかは、皆さんに委ねます。

続いて注意事項になります。
メインシナリオはグランド側とサイド側の二本で進行していますが、各シナリオで起こった問題はそのシナリオで解決が目指されます。
グランド側で起こった問題は、グランド側でのみ解決できるということです。
上の次回アクション指針で言いますと、ルスタンを探しにサイド側でアクションをかけても、何も得るものはないのです。
とてももったいないことですので、どうぞご注意ください。

本文の最後のほうにチラッと出ました、特別な魔法鉱石(聖石)は、川岸マスターのサイド側で扱われます。
グランド側で聖石に関するアクションを行っても思うような結果にはなりませんので、お間違えのないようお願いします。

第7回のメインシナリオ参加チケットの販売は9月23日から10月1日を予定しております。
アクションの締切は10月2日の予定です。
詳しい日程につきましては、公式サイトお知らせ(ツイッター)や、メルマガでご確認くださいませ。

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。