メインシナリオ/グランド第7回
『あなたのための希望のうた 第7話』



◆第一章 箱船が行く道
 イヴェット・クロフォードの提案で水路作りを優先することになった大規模工事は、人も集まり順調に工程を進めていた。
 現場付近に設置された簡易炊事場では、毎日港町の女性達がやって来て作業員達の昼食を作っている。
 ステラ・ティフォーネもその中に混じって大鍋のシチューをゆっくりとかき混ぜていた。
 具材を決める際、できるだけカロリーの高いものをリルダ・サラインに要望として出してみたところ、たくさんではないが肉と魚を交互に入れることができるようになった。
 味付けは、少し濃い目で。
 いい具合に煮えた鍋の中身にステラは淡く微笑み、額ににじんだ汗をぬぐう。
 大鍋はいくつも並べられているため、炊事場は少々暑い。
「お茶も必要ですね」
 と、疲れに効くハーブを頭の中でいつくか挙げていると、この場では珍しい男性の声に呼ばれた。
 振り向くと、ずい分と色も厚みも薄いパンがヌッと突き出された。
「これ、試食してみてくれますか?」
 パンの向こうでシャオ・ジーランがにっこりしている。
 パンは前もって焼かれていたものではなく、この場で焼かれたもののようで、ふわりとよい香りがした。
「これは……初めて見るパンですね」
 まだ温かいパンを受け取り、不思議そうに眺めるステラ。
「小麦粉と砂糖、油、それとちょっとした工夫からできています。発酵がいらず鉄板で作れるのですよ」
「鉄板で……それはいいですね。何というパンなのですか?」
 瞬間、シャオの笑顔が固まった。
「えー、何でしたっけ。あれ……な……んだっけ……ナ、ン? いえ、ナンではありませんね。ぬ~ム~ぬ~……そうだ!」
 思い出した、と手を叩くシャオ。
「ヌンというパンでした!」
「ヌン、ですか」
「はい、ヌンです。味の濃い料理ならナンでも合います!」
「では、今日のシチューに合いそうですね。濃い目の味付けにしましたので」
 そう言ってステラはヌンをちぎり、味見をした。
 材料からだいたい察してはいたが、とても淡白な味わいのパンだった。
 と、そこに昼食時間の鐘が鳴った。

 鍋の前に列を作り、シチューを待つ作業員達。
 先日行われた健康管理講座により、手洗いはしっかりしてある。
 器にたっぷりよそったシチューを作業員が持つ盆に乗せ、ステラは微笑を浮かべて励ました。
「お疲れ様です。今日は変わったパンも付けますね。シチューと一緒に食べてみてください。あまり無理はならさらず、喉が渇いたらいつでもいらしてくださいね」
「ありがと、ステラさん! いやー、始めのうちはあんたのその目に見られると不安になるっつーか……でも、今は全然! あんたの顔見るのが楽しみだ。メイド服もかわいいぜ。できれば俺だけのメイドさんに……なんてな! わきまえろっつーのな!」
 作業員は笑顔で早口にまくし立てると、ステラも無理しないようにと言葉を残して去って行った。
 最近、ステラはこういった言葉をかけられることがよくあった。
 以前は身分による壁を感じたものだったが、ここで食事作りに参加してからは少しずつ周囲の態度が良い方向に変わってきている。
 自警団員として働いてきた成果もあるのだろう。
「持ち場は違えど同じ目的のために働く者同士に芽生える友情ですか」
 いいですねぇ、とどこか他人事に言うシャオ。
「労働というものは! 素晴らしいですね! しかしこのヌンはうまい!」
 もしゃもしゃと自作のパンを食べながら、声を大きくするシャオだった。
 周りの女性達からクスクスと笑い声が漏れ、自分が笑われているわけでもないのにステラは恥ずかしくなった。
 シャオを見上げると、彼はまったく意に介していない様子だ。
 そしてヌンを飲み込むと、
「数は少ないですが、こちらで調達した食材とここの調理器具でできるかぎりの料理を拵えましょう! 小腹がすいた時にちょうどいいものをね」
 と、得意気に宣言した。
 しかし、ステラは怪訝そうに首を傾げる。
 自警団員として見回りもするから知っているが、この男は時々道端で腹を空かせて寝ていることがある。
 シャオが持ち込んだ食材の山を目に、ステラは疑惑の視線を向けた。
「失礼ですが、それらはどこから?」
「市場で購入したのですよ。たくさん買ったのでだいぶオマケしてくれましたね。ありがたいことです」
「それでも、それなりの代金になったと思いますが……」
「ああ、お金なら町の人からこう……何と言いますか……頂いたので……」
 何故か歯切れが悪くなるシャオ。
 ステラの目が、ますます疑わし気に細められる。
「いえいえ、悪いことをして頂いたお金ではありませんよ!」
「そうですか。それなら良いのですが」
 ステラはひとまずその言葉を信じた。
 安心したシャオは、ガレットの準備を始める。
 余ったシチューを一つの大鍋にまとめているステラの横で、生地をこねるシャオが箱船について言った。
「もう完成なんですよね……荷物もどんどん積み込んでいるとか。私も乗れますかね……さすがにそろそろ住む場所を変えたいです……」
「ここはお嫌ですか?」
「嫌というか、一つのところに留まるのが苦手と言いますか……」
 放浪癖がある人なのだろうとステラは思うことにした。
 ふと、行方不明のルスタン・チチュキンのことを思った。
 彼は今、どこにいるのか。何を考えているのか。
 けれどすぐに、考え事のために目の前の仕事の手を抜くことはできない、と気持ちを切り替える。
 鍋の中身を移し終えたら、洗い場を手伝いに行かなくては。そして、それが終わったら……。
「洗い物が終わったら、お手伝いしますね」
 シャオに言うと、ありがとうございますという返事。
「数が多いですからね、助かります。このガレットやマントウであーくあぱたつあを挟むと、腹持ち良いおやつになると思います」
「皆さんにも声をかけて、手分けして作りましょう」
 その後、他の女性達もシャオの手伝いに参加した。
 できあがったガレットやマントウに合うハーブティを淹れ、作業員達の休憩時間前にちょっとしたお茶会が開かれたのだった。

 魔法研究所所長のジョージ・インスから岩ゴーレムの魔法具を預かったイヴェットは、今日も作業前のテスト動作を欠かさなかった。
 これの破壊力は実際に見ているので、事故を起こすわけにはいかないからだ。
 また、魔法具も肌身離さず大切に持っている。寝る時も枕の下という徹底ぶりだ。
 そんな責任感の強い彼女だからこそ、ジョージもそのつど研究所に返しに来なくてもいいと言ったのである。
 そして昼休憩後の今、岩ゴーレムはその怪力を水路作りに再び発揮している。
 リュネ・モルが岩ゴーレム用の道具の作成を造船所に依頼してあるので、できあがるまでは家畜用の鋤を両腕と腰に繋げて土をやわらかくしているのだ。
 これで作業員の掘削作業がかなり楽になっている。
 イヴェットが岩ゴーレムを監督しながら工程表を確認していると、伯爵のアシル・メイユールが騎士団長のアイザック・マクガヴァンを伴ってやって来る姿が目に入った。
 何かあったのだろうかとイヴェットだけでなく、気が付いた作業員も思わず手を止めてしまう。
 そのたびにアシルは作業を続けるように言いながら、まっすぐにイヴェットのところへ歩んできた。
「お仕事中にすみません。工事の進み具合を見に来ました」
「お疲れ様です。工程表はこちらで、今はこの作業をしています」
 イヴェットが渡したボードを見るアシルを、それとなく観察する。
 箱船のほうも大詰めのため疲れているのか、少し眠そうだ。
「ありがとうございます。順調に進んでいるようですね。岩ゴーレムはどうですか? 不具合はありませんか?」
「ええ。命令通りに動いてくれています」
「それは何よりです。少しでも違和感があったら、ジョージさんに申し出てくださいね。ところで、リルダさんはどちらに?」
「向こうのほうにいると思います」
 方向を指してイヴェットが答えると、アシルは礼を言って歩き出した。
 イヴェットはそれを引き留めて早口に告げる。
「箱船の追加乗組員に応募しました。……ジスレーヌさんの分として」
 アシルは苦笑をもらした。
「残る気でいるようなので、素直に言うことを聞くかどうか」
「その時は……」
「その時は、あなたに押さえつけていてもらいましょうか。もちろん、あなたも一緒に乗ってもらいますよ」
 どうしますか、と言い残してアシルは行ってしまった。
 護衛のアイザックがため息を吐いてイヴェットを見た。
「断ってもいいんだよ。親子喧嘩にわざわざ巻き込まれにいくこともない」
 まだ続いていたのですか……とイヴェットが口の中でこぼした時には、アイザックも立ち去っていた。
 その頃リルダは、マルティア・ランツと水耕栽培のことで話し合っていた。
 二人は造船所へ行き箱船内の水耕栽培の設備を見て戻ってきたところだった。
 設備は船倉に設置されていて、きちんと照明もつけられていた。持ち運びもできるので、海上に出て天気が良い日は甲板に運び出して日光にあてることもできるだろう。
 設備や作物の世話は魔術師が引き受けてくれた。
「充分とは言えないけれど、何もないよりはずっといいわ。やっぱり新鮮な野菜があると嬉しいものね。そうだ、念のため種も持って行ってもらおうかな」
「どの野菜の種か、しっかり書いておかないとね」
 リルダの指摘に頷くマルティア。
「ところで、ここの設備の移動は岩ゴーレムがやってくれるんだっけ?」
「そうよ。ただ、先に場所だけ確保して移動は最後のほうになりそう。こっちの工事を優先したいから」
「うん、それで大丈夫」
 マルティアは水耕栽培関連でやり残しはないか、手元の計画表を丁寧に見直していった。
「今日やることはもうなさそうね。食事のほうのお手伝いしようかな……」
 炊事場のほうを見やりながら言ったマルティアに、リルダが苦笑する。
「その前に、一息入れなさい。倒れちゃうわよ」
「それならリルダさんも一緒に行きましょう。最近、ちゃんと休んでないんじゃない?」
「そんなことは……」
 ない、と言い切れず、目をそらしてしまうリルダ。そういえば誰かにも同じようなことを言われたな、と『師匠に鍛えられたので』が口癖の青年を思い出す。
「ちゃんと休んでいるなら、私の目を見て頷けますよね?」
 マルティアはわざと少し意地悪に言う。
 最近、リルダに元気がないのには気づいていた。それが体調によるものではなく、精神的なものであることも。
 友人のクラムジー・カープにも感じることだが、二人ともきっと簡単に口には出せない悩みを抱えているのだろうと感じていた。
 水臭いと思いつつも無理に聞き出すこともできず、もどかしい気持ちで二人を見守るしかなかった。
 だからと言って暗い顔はせず、二人の心が少しでも元気でいられるように、マルティアはいつも笑顔で接していた。
「もう、変な迫力出さないでよ……。わかったわ、私も少し休むわ」
 観念したリルダに笑顔で頷くマルティア。
 ふと、リルダの視線がそれる。
 マルティアもつられて顔を上げると、アシルがやって来るのが見えた。
 リルダの雰囲気が少し硬くなるのを感じた。
「造船所へ行っていたそうですね。待ちぼうけにならなくてよかった」
「待ちぼうけって……出航前で忙しいんじゃないですか?」
「私ができることは、もうほとんど終わりましたから。最終確認までは比較的暇なのですよ」
「そうですか。それで、私に何かご用が?」
 マルティアは二人の様子をこっそり窺う。
 ふだんの二人の様子は知らないが、何となくぎこちない……そんな気がした。いや、ぎこちないのかリルダだけか。
「水路のほうは順調に進んでいるとイヴェットさんから聞きました。居住区のほうはどうですか?」
「水路を優先しているので、まだそれほど進んでいませんね。整地と木の切り出しをやってもらってます」
 それから食材のことや最近出没している痴漢のことなどを話し合う二人を観察していたマルティアは、ふとアイザックと目が合った。彼のほうもアシルとリルダを観察していたようだ。
 マルティアはそっとアイザックに近寄って小声で尋ねた。
「お二人は仲が良くないのですか?」
「良くないと言うか、単に親しくないと言うか……でも、ふだんはもっと穏やかなものだけど、今日は何か……」
 マルティアが感じた違和感は、アイザックも感じていたみたいだ。
 これはマルティアの直感だが、リルダが元気なさそうなのはアシルが関係しているのかもしれない……そんなふうに思った。
 不意に、足元が揺れた。また地震だ。
 ここ最近は特に頻繁に起きるようになり、今朝がたも少し強い揺れに人々は叩き起こされていた。
 会話が途切れる。
「……止まりましたね。地震への対策は、どうか念入りに頼みます」
「お任せください」
 リルダとの話が終わったアシルは次にマルティアを見た。
「あなたがマルティアさんですか?」
「はい……」
「クラムジーさんから話は聞きましたか? 箱船に乗ってはどうかという話ですが」
「あ……はい」
 マルティアは、少し前にクラムジーに会った時にそんな話があったことを思い出した。
「あなたをぜひにと推薦されたのですが、その意志はありますか?」
「え、と……私は……」
 返事に惑うマルティアにアシルは一つ頷くと、
「決まったらお返事を聞かせてください」
 と言った。
 その時、フレン・ソリアーノがリルダを呼ぶ声がした。
 午前中に二人が造船所を訪ねた時は席を外していて会えなかったのだ。
 しかしフレンが探していたのはリュネだった。
「そうか、留守か。頼まれてた岩ゴーレム用のショベルができたから運んできたんだが、どうする?」
「見せてもらうわ。イヴェットさんに頼んで使ってもらいましょう」
 フレンが後ろに向かって合図を送ると、造船所の作業員達が数人がかりで大きなショベルを乗せた台車を押してきた。
 目を丸くする四人に、フレンが自慢げに説明する。
「要所に鉄を使って他は強度を高くした木材からできている。いやー、あいつもなかなか無茶を言ってくれたぜ。やりがいはあったがな!」
「本人がいないのは残念だったわね。今、人を集めに行ってるのよ」
「ま、話は次に会った時にでもできるさ」
 こうして、岩ゴーレムはショベルを装備された。
「掘ってみてください」
 と、イヴェットが岩ゴーレムに命じると、岩ゴーレムはショベルを地面に突き立て掘り始めた。
 その動きをしばらく見つめたイヴェットは、
「いい具合ですね。お忙しい中、ありがとうございます」
 と、フレンに丁寧に礼を言った。
「いいってことよ。大きさもちょうどいいな。何かあったら言ってくれ。──んじゃ、お前ら戻るぞ!」
 作業員を引き連れて造船所へ帰るフレンの横にアシルが並ぶ。
 二人は何やら会話を交わしながら行ってしまった。

◆第二章 出航を待つ
 箱船への荷物の積み込みも最終段階に入ったある日、コタロウ・サンフィールドはかねてより思案していたことをフレンに打ち明けた。
「移住地が見つかった後の船か……」
「この船がここに帰ってきたとしても、乗せられる人数はごくわずかですよね。ですから、二隻目、三隻目が必要だと思うんです。それも、航行性能よりも収容力や造船のしやすさ、耐久力を重視した船が」
「そうだなぁ……」
 曖昧な相槌を打ち、フレンはつるりと頭を撫でる。
「資材は今から調達できるだろうが……魔法具や魔術師がなぁ」
「あ……」
 マテオ・テーペに新たな魔法具を作るだけの力はないことをコタロウは思い出した。
 ダメか、と諦めかけた時、フレンが何か思いついたような声をあげた。
「いや、造っておこう。帰還した船が無傷なわけがねぇ。お前さんの言う船があれば魔法具類を積み替えてやりゃあいいんだもんな」
「それじゃあ」
「よし、やるぞ。設計図はできてるか?」
「はい」
 コタロウは図面を出してフレンの前に広げた。
「二枚目は効率が良いと思われる造船工程とコストです」
 それらの表と数字にざっと目を走らせたフレンが、感心した声をもらす。
「よくできてんなぁ。たいしたもんだ」
「もっと良い手はないかと思ってるんですけどね」
「そいつは俺も一緒に考えよう。ところで、お前さんは箱船に乗るのか?」
「応募しました」
「ふむ」
「なので、もし乗船することになったら、後を託せるように内容を練り込みたいんです」
 うんうん、と頷いたフレンは「それなら」とコタロウを見る。
「乗る時は技師長として乗ってくれ。決まったら俺が推薦しとく」
 コタロウは目をぱちくりさせた後、表情を引き締めて頷いた。

 何か手伝えることはないかと造船所へ足を運んだエリス・アップルトンだったが、門前から忙しなく働く作業員達の姿を目にしてその足が止まってしまった。
(あの人達は、箱船は移住地を探しに行くと信じているんですよね……)
 たとえばエリスが彼らのように熱心に働いていたら、あれこれ悩むこともなく神殿長のナディア・タスカのように箱船計画に疑問を持つこともなかったかもしれない。
 性格ゆえ、どうしようもないことであるが。
 だから、迷いを持つ自分が一途な彼らの場所に踏み込んでもいいものか……と、ためらってしまったのだ。
(箱船計画のキーは、水の魔術師……わたしも、まだ未熟とはいえ水の魔法を使える者)
 箱船の追加乗組員募集にも応募した。
 神殿で障壁維持に従事しつつ時が来るのを待つべきという気持ちもあるが、このまま何も知らずにいることもできない。
 エリスは自らを励まし、中へと歩き出した。
 まずは所長に挨拶をするため事務所を目指す。前に訪れたこともあるため迷わずに着くことができた。
 ドアは開け放たれていた。
 遠慮がちに室内を窺うと、フレンと前に訪れた時に船内を案内してくれたコタロウが、額を突き合わせて何やら話し合いをしている。
 間が悪かった、とエリスが引き返そうと一歩下がった時、フレンが彼女に気が付いた。
「お? この前の嬢ちゃんか。どうした?」
 ふつうに話していても大きな声にエリスは小さく肩を揺らしたが、もう覚悟を決めるしかないとここに来た目的を口にする。
「あの、魔法具を……箱船に積み込まれる魔法具を拝見したいのですが……」
 フレンがコタロウを見やる。
 コタロウは小さく頷いて答えた。
「見学はできるよ。いくつか種類があるけど、どんなものを見たいのかな?」
「種類があるなら、できるたけ多く見てみたいです」
「オッケー。機関室には入れてあげられないけど、他のものなら見せられると思う」
「コタロウ、こっちは俺のほうで少し詰めとく。案内に行ってやれ」
 こうしてエリスはコタロウに船内を案内されることになった。
「仕事の邪魔をしてしまいましたよね……すみません」
「そんなことないよ。ちょうど休憩しようと思ってたとこだったし」
 箱船の甲板にあがる。ここには魔法具は置かれていない。
 船尾寄りにある船長室には、前にルースが頼んでいた障壁の役割を果たす小さな魔法具が設置されていた。
「これは神殿にあるものの小型版といったところだね。主に荒天から船を守るのが目的だよ」
「水の魔術師が作動させるのですか?」
「そうだね」
 エリスは部屋の隅に設置されている円柱形の魔法具を見つめた。
「ああ、これなら触っていいよ」
 と、コタロウが差し出したのは望遠鏡。
「陸地が少しでも早く見つかるようにって、技術班の人が作ったんだ。人の魔力に反応するんだって」
 渡されたそれで、エリスは窓の向こうを覗いてみた。
「あ……っ、あんなに遠くのものが」
「すごいよね。通常の物の何倍って言ったかな。これなら期待できそうだよ」
 微笑むコタロウに、しかしエリスは同じように笑みを返すことはできなかった。
 次に船内に下りると、一定間隔で魔法具による照明が取り付けられていた。
 これはエリスも神殿の奥の間で見たことがある。
「照明用は船長の部屋や姫の部屋にもあるよ。他の乗組員の部屋にはないんだ。あんまり数はそろえられなくてね」
「貴重なものですからね」
 船尾のほうへ狭い通路を進んでいくと、立ち入り禁止の札をかけられたドアに突き当たった。
「この先に動力になる魔法具が置かれている。……ごめんね、中に入れてあげることはできないんだ」
「むやみに人が入れない場所であることはわかります」
 後は要所要所で特に強化しておきたいところに使われているが、それらは見えないところに埋め込まれているそうだ。
 再び事務室へ戻ったエリスは、フレンに丁寧に礼を言った。
「そんなかしこまらなくていいぜ。ところで、嬢ちゃんはあの募集に応募したのかい?」
「ええ。外の世界にはずっと憧れていて。もし乗れたら、お役に立ちたいと思っています。水の魔法なら少しは使えますので」
「それで魔法具を見たいと言ったのか」
 エリスはフレンに頷いた。
「水の魔法か。よかったら姫さんの力になってやってくれ。一番負担がかかるだろうからな」
「そうなれたらと思います」
 フレンはどうか知らないが、ここで働く人達と姫達とでは箱船計画への認識が違うことがわかった。
 このまま異なる認識の人達が一つの船に乗り込んだら航海はどうなるのか。
 そのあたりはナディアやリルダ達が何とかしそうではあるが……。
 造船所を後にする前、エリスは箱船を振り返りながら不安な気持ちを抱えていた。

◆第三章 優先するべきもの
 水の神殿で障壁の維持に努めるルース・ツィーグラーを待っていたヴァネッサ・バーネットは、ルースの侍女のベルティルデ・バイエルの案内で裏口のほうに案内された。
「悪いね、休憩時間に」
「別にかまわないわ」
 ルースは愛想なく言うが、いつもこうだろうことは知っているのでヴァネッサは気にしない。
 どこからどう話そうか、と少し思案した彼女は、
「職業柄、目につく部分からの提案……と思って聞いてくれ」
 と、切り出した。
 医療術師であるヴァネッサの世話になったことがあるルースは、黙って聞く姿勢をとった。
「まず知っておいてほしいのは、マテオ・テーペの人々の『生きる力』は実は相当に強いということだ」
 断言したヴァネッサに声を発したのは、ルースの傍らにいたベルティルデのほうだった。
「そうなんですか?」
「ああ。考えてもみなよ。住むに適さない海の底で障壁を張り、人工太陽を用い、あげく箱船まで造り上げる生命力は特筆すべきことじゃないかな。医者の経験から保証する。ここの人々のより良く生きようとする力は強い」
 ルースとベルティルデは、専門家からの言葉に息を飲んで耳を傾けている。
 ここからが本題だ、とヴァネッサは心の中で気を引き締める。
「その強い生命力を出航組が後ろ盾にしないのは、非常にもったいないよ」
「……どういうこと?」
 ルースは先を急かすように聞いた。
「この洪水は、一度の航海で止められるものなのかい? この公国はもともと土地が低かったそうだけど、それにしても陽の光がまったく見えなくなるくらいの海の底に沈めるとてつもない大洪水だ。あたしは、そう簡単にいくか疑問だね」
「それは……」
 口ごもるルースに、ヴァネッサはここぞとばかりに切り込む。
「むしろ移住地という拠点を先に作り、人々の力を何度でももらい受け、出航を繰り返すほうが使命達成が現実的じゃないか? 移住できれば、人々のより良く生きる願望は洪水を静めるほうにも向かうだろうし、協調も可能だろう」
 ヴァネッサはルースの反応をわずかでも見逃すまいと見つめた。
 ルースは明らかに迷っている。ただ、どういった意味の迷いなのかがわからない。
 ベルティルデは目を伏せ、何やら考え込んでいる。
 ヴァネッサは返事を急かす気はなく、何らかの答えを得るまでは辛抱強く待つつもりでいた。
 計画を変えるということは、中心で動くルースにとってとても重要であるのをわかっていたからだ。
 と、その時、誰かが近づいて来る足音がした。
「あ、ここにいたのか」
 ヴォルク・ガムザトハノフだった。
 今日も魔法学校で真面目に授業を受け──予習復習も欠かさない!──基礎力を養ってきた。今はここにいるのでできないが、ここ最近は放課後になると図書室にこもり気候や気圧、空気への理解を深めている。
 将来的には、気候を操る魔王になる予定だ。
 それはともかく、今日はルースに聞きたいことがあって日課をやめてここを訪ねたのだ。
 ヴォルクはルースの前に立つと、前置きもなく聞きたかったことを口にした。
「ねぇ、箱船って移住地探索がメインじゃないの?」
「な、何でそんなこと聞くのよ」
「誰かが話してるの聞いたんだ。ねぇ、違うの?」
「違わなくはないけど……」
 まっすぐに見つめてくる子供の目に、ルースは押されていた。もともとヴァネッサに揺さぶられていたこともある。
 ヴォルクはさらに畳みかけた。
「じゃあ、姫は何で乗船するの? みんなのためじゃないの? 残った人達は死ぬの? 何で? 僕は子供だから乗れなくても仕方ないかもしれないけど、そしたら僕も死んじゃうの? 死ぬのはヤだよ」
「も、もうっ、そんないっぺんに言わないでよ!」
「だって、わかんないんだよ」
 ヴァネッサはルースがどう答えるのか見守った。
 彼女は簡単に人を近づける性格ではないが、情のない人間ではない。
 正直に死ぬのは嫌だと言う子供を、はたして突き放すことができるかどうか。
 ところが、動いたのはベルティルデのほうだった。
「姫様、わたくし達は考え直す必要があると思いませんか? わたくしは少し前から、そう思っていました」
「あんた……。でも、そんなこと」
「きっと何か方法はあるはずです。ここの皆さんが生きることを諦めないなら、わたくし達もそれに応えるべきではありませんか?」
 いつも従順だったベルティルデの反抗とも言える発言だった。
 やがて、ルースは諦めのため息を吐いた。
「わかったわよ。何とか考えましょう」
 やや投げやりな感じだが、ルースも方針の転換に同意した。
 彼女はヴァネッサとヴォルクに向き直る。
「聞いての通りよ。これから伯爵を説き伏せてくるわ。黙って計画を変更するような真似はしたくないからね。ベル、覚悟はいいわね?」
「はい!」
 ベルティルデはヴォルクの頭を撫でてやさしい笑みで約束した。
「待っていてくださいね。きっと、みんなで生きる方法を見つけてみせますから」
「僕らを助けようとしてくれる人が他にもいるんだ。みんなでやれば……だよな!」
 約束の印のように、二人はコツンと拳を合わせた。

◆第四章 痴漢現行犯逮捕!
 夕方になり水路工事の作業時間が終わったイヴェットは、これから向かうところと同じ方向に帰る人達と一緒に他愛のないおしゃべりをしながら歩いた。
 そうして向かった畑地で目的の少女、ジスレーヌを見つけた。
 彼女ももう帰るのか、農家の人に挨拶をしているところだ。
「ジスレーヌさん」
 呼びかけると、少女は笑顔で駆け寄ってくる。
 名前を偽っていたことを知っても態度が変わらないイヴェットに、ジスレーヌはすっかり懐いていた。
「イヴェットさんもお帰りですか? 水路工事はどう?」
「工事は順調です。途中まで送りましょう。最近、痴漢が出るそうですから」
「ふふっ。痴漢なら大人のイヴェットさんのほうが危ないんじゃないですか?」
 自分には関係ないという態度のジスレーヌに、イヴェットはわざと声を落として言った。
「世の中には大人の女性よりも、あなたくらいの女の子が好みという大人の男性もいるんですよ」
「そ、そんな人、いるの……?」
「人の好みは千差万別ですからね」
「……」
「これからは、夕方になったら一人にならないように」
「はい……」
 ジスレーヌはやや緊張した顔で、イヴェットにぴったり寄り添った。
 クラムジーを始め、痴漢対策に携わる者達でまとめた情報によると、痴漢は夕方以降に港町を中心に出没することがわかった。
 ジスレーヌの家である領主の館とは反対方向だが、万が一ということもある。
 イヴェットは工事現場の人達には、ウォーキングをする時はできるだけ明るい時間帯の大通りですること、仕事帰りには集団帰宅を勧めた。
 領主の館の門が見えてくると、イヴェットは足を止めた。
「お家はこの近所でしたよね?」
「はい。ありがとうございました。あの、えーと……」
 何故か突然、頬を染めてもじもじするジスレーヌ。
 彼女の言葉を待つイヴェットに、ジスレーヌは意を決した顔で言った。
「家でお茶でも飲んでいきませんか! お嫌でなければですが! 帰りは騎士団の人に送らせますので!」
 ものすごい気合の入りように、イヴェットは思わず小さく吹き出してしまった。
「ふふっ。ありがとうございます。ですが、平民の私が行ってもいいんですか?」
「私がダメとは言わせません!」
 期待に輝く少女の眼差しに、イヴェットも嫌とは言えなかった。
 イヴェットはジスレーヌに手を引かれ、館へと案内されたのだった。

 その頃、トモシ・ファーロはクラムジーや自警団、警備隊と協力して集めた痴漢の被害状況をもとに、犯人確保に動いていた。
 クラムジーが作ったそれらを示すマップを頼りに見張りを置く。
 警備隊はほとんど人手を割けないため、自警団が中心になっている。作戦にはアンセル・アリンガムも参加していた。ちなみに警備隊からはジェンナーロが来ている。
 作戦は、囮作戦が採用されたが、アンセルは最後まで囮になるトモシを心配して止めようとしていた。
「格闘の心得はないのだろう。ジェンナーロにやってもらったらどうだ?」
「彼は……ええと、適正ではないと思います」
 ジェンナーロは警備隊員だけあって鍛えられており、女物の服を着ても何かの見世物にしかならない。
 その点トモシは背丈はあるが細身なので、薄暗い時間帯なら長身の女性と見られる可能性が高い。
「大丈夫。無理な抵抗はしないし、撃退用にコレも持ってきたので」
 コレ、と見せたのは唐辛子の粉末や胡椒を入れた小さな袋。笛も携帯している。
 アンセルはもう反対はしなかったが、表情は渋いままだ。
「どうも君は無茶をしそうな予感がするよ……ルスタンに似ているように見えてね……」
「……ルスタンくん、どこに行ったんだろうね。この前、俺がいろいろ聞いたから怒ったのかな」
「ケンカでもしたのか? けど、彼は怒ってもすぐに冷めるから、それが原因ではないと思うよ」
「だといいけど」
 そんなやり取りの後、トモシ達は持ち場へと移動した。
 ウォーキングに励む女性のふりをして、トモシは頭に叩き込んだ被害ポイントを歩いた。
 その彼を、アンセルやジェンナーロ達が離れたところからついていっている。
「あんまり女の歩き方じゃないな」
「だが、この薄暗さならごまかされるだろう。女装には問題ない」
「黙って立ってりゃ騙されるな、あれは」
 ジェンナーロとアンセルの間にこのようなやり取りがされていたことなど露知らず、トモシは周囲に気をつけながら足を進める。
 待っていた瞬間が訪れたのは、人通りが少ないポイントに差し掛かった時だった。
 建物の陰から黒い人影が飛び出し、トモシを背後から抱き込む。
 密着されたトモシは、男の手に胸元や腰回りをまさぐられるのを感じ全身に鳥肌が立った。
 直後、トモシを襲った男はいつもと違う感触にハッと身を引いた。
「な、何だお前!?」
「くっ……確保ー!」
 囮役を申し出たとはいえ、怒りやら屈辱やらは自然と沸き上がってしまい、トモシはポケットから出した小袋投げつける。
 唐辛子や胡椒が詰まった小袋は男の顔面に当たると、開いていた口から粉末をまき散らした。
 それを吸い込んでしまった男は激しく咳き込みながらうずくまった。
 そこにアンセル達自警団が殺到する。
 ジェンナーロが笛を吹いた。じきに別のポイントの警戒をしている自警団のメンバーが集まってくるだろう。
 ジェンナーロがポンとトモシの肩を叩く。
「ご苦労さん。……おい、大丈夫か?」
「だ、だいじょぶ……。うん、心の通わない接触はよくないね……」
「ま、そうだな。さて、痴漢君は何を考えてこんなことをしたのかな? ただの欲求不満か?」
 アンセル達に取り押さえられている男に、ジェンナーロが事務的な声で尋ねた。
 痴漢は二十歳くらいのまだ若い男だった。
 ムスッとして口をつぐむ彼の顔を見た自警団の一人が「あんた……」と、声をあげた。
「あんた、ルスタンの知り合いだよな? 一緒にいるところ、たまに見るぜ」
「くっ、関係ねぇっ」
「じゃあ個人的な欲求の犯行だな? ……どうする?」
 ジェンナーロはトモシを見た。
「──裸に剥いてしまいましょう」
 痴漢は驚愕してトモシを見上げる。
「自分がしたことをきちんと理解してもらわないと」
「ま、待て」
「待たないよ。……覚悟はいいね?」
 妙な迫力をかもしだしたトモシが男に一歩接近した瞬間、男は耐えきれず白状した。
「ルスタンに頼まれたんだ! 女が魔法具持ってるからこっそり取り返してくれって! 女ってことしか知らないっつーから仕方なく!」
 男の口から出てきた名前に緊張が走る。
 ルスタンの行方はいまだにわからないのだ。
 アンセルが真剣な目でルスタンの居場所を聞いた。
「し、知らない……本当だ! 俺に魔法具のことを頼んだきり会ってないんだ」
 アンセルは真偽を確かめるように鋭く男を見つめていたが、やがて力を抜いて男の前から下がった。
「どうやら嘘はついてないようだ」
「どこに行ったんだろうね……。どうする、この人。頼まれた魔法具ってのもどれのことだか」
 トモシに心当たりがあるとすれば、イヴェットが預かっている岩ゴーレムを操るものだが……。
「魔法具のことは、もういい」
 アンセルが静かに言った。
「あれは私のものだ。だが、このまま水路工事などに役立ててほしい」
 何故アンセルのものをルスタンが持っていたのか謎だったが、自嘲するように言った彼の雰囲気から誰もそのことを聞けずにいた。
 そして、男はいったん警備隊の詰所に引き取られることになった。

◆第五章 凶刃と告白
 翌日の昼過ぎ、ルスタン捜索に当たる自警団の中に岩神あづまマティアス・ リングホルム、クラムジーの姿があった。
「昨日の捕り物に協力してくれた皆はご苦労だった。あの男はこってり絞られて開放されたそうだ。再び問題行為に出ることはないと思うが、見かけた時はさりげなく注意しておいてくれ」
 痴漢事件についてこう締めくくったアンセルは、本題のルスタン捜索について話を始めた。
「少し捜索範囲を広げようと思う。森に潜んでいるかもしれない。一度にすべては回れないから日にちと範囲、人数を決めて進めていこう」
 アンセルは計画表と簡単な地図を広げて今日の振り分けを発表した。
 それぞれ確認してから担当場所へ向かおうと動き始めた時、あづまが待ったをかけた。
「アンセルさん、その前に話しておきませんか? ルスタンさんが行方をくらませたそもそもの原因を」
「やはり、痴漢事件だけでは終わらないか……」
 ひっそりとため息を吐くクラムジー。
 箱船計画に異を唱える者はそのつど現れていたが、そのほとんどが不安からくる衝動的なものだった。
 そういう人達は納得すれば引いてくれる、その場限りのものだ。
 しかし、計画の転覆や強奪を周到に狙う者がいるのも確かなのだ。
 痴漢事件の顛末を聞いたクラムジーは、そのあたりを確かめに来たのだった。
 アンセルは硬い表情であづまを見返したが、彼女は一歩も引かなかった。
「あなた、もう洗いざらい打ち明けてください。箱船計画をより良い形で成功させるためにも」
「……より良い形か」
「そうです。あなたが企てていた計画は、すでに決行寸前まで至っていたのでしょう? このまま放置しておけば、他の者に引き継がれてしまうのではないですか? ルスタンだけを捕まえても意味はない──違いますか?」
「それは……」
「たとえ彼らが箱船を強奪したとしても、単にパイを切り分ける人物が入れ替わるだけで、現状の軋轢が緩和されるわけではない……いいえ、むしろさらに悪化させる危険があると思いませんか? そうなれば、箱船にもあたし達にも未来はありませんよ」
 あづまに諭され、アンセルは観念して目を伏せた。
「皆に、黙っていたことがある──」
 静かな声でアンセルが打ち明けたのは、彼の本来の身分と名前、それからルスタンらここで得た同志とスパイとして送り込んだ元々の配下の者達のことだった。
 本名はキンバリー・アルビストン。旧公国の男爵位の者だった。
 大洪水を生き延びた彼は、アシルへの個人的な憎しみから箱船計画を崩してやろうと企てた。
 その要となるのが箱船計画における最重要人物のルース姫の確保であった。
 彼女を押さえ、箱船を乗っ取り、計画を変更させる──。
 そうすることで、アシルを失脚させようとしたのだ。
 しかし、アシルへの憎しみには誤解があったことがわかった。
 計画変更を望む意志に変わりはないが、もう以前のような強硬手段に出る気はなくなっていた。
「けれど、ルスタンは計画は実行すべきだと主張した。私は止めることができなかった」
「では、自警団はあなたのもう一つの武器だったわけか」
 ぽつりとこぼしたクラムジーに、アンセルは黙って頷いた。
 何も知らずにただアンセルを慕って自警団に加わった者達は、呆然とするしかなかった。
「ルスタンを匿っていると思われる同志の居場所を教えてください。それと、スパイのことも」
 あづまはスパイとは近衛兵か貴族の中にいると予想していたが、はたしてそれは本当だった。
 マティアスが舌打ちする。
「よりによって近衛兵かよ。おい、まさか隊長のサスキアじゃねぇよな!?」
 サスキア・モルダーのことはルースも信頼していた。もし彼女がスパイなら、ルースをどうにかすることなど容易いだろう。
 しかしアンセルは首を振って、マティアスの嫌な考えを否定した。
「いや、彼女は違う」
「そうか。俺は姫さんのとこに行って近衛兵を探る。おっさん、スパイの特徴を教えてくれ」
 アンセルからそれを聞いたマティアスは、すぐに神殿へと駆け出す。少しでも助けになればとクラムジーも後を追った。
 そして残った者達でルスタン捜索に繰り出すことになった。

 港町のあちこちを巡り、ようやくルスタンの隠れ場所を見つけて向かった家にいたのは、彼を匿っている家の者だけだった。
「ルスタンさんはどこです? もう計画は破棄されたのです。彼の行動はただの暴走であり、意味なく罪を重ねるだけなのです。どうか、教えてください」
 言葉も態度も丁寧だが、有無を言わさぬ迫力で迫るあづまの後ろにアンセルが控えているのを見て、五人目の同志は戸惑いを隠せなかった。
「……ルスタンが言ってたのは本当だったんだな。じゃあ、伯爵の計画はこのまま実行されるのか?」
「いや、箱船計画の第一の目的を変更させることは、伯爵に認めさせなければならない」
「今さら違う方法でなんて……」
「そのために動いている人達がいる。私は……手段を間違えた」
「そんな……」
「取り返しのつかないことになる前にルスタンを止めたい。彼が向かった先を教えてくれ」
「クソッ。後できっちりわけを聞かせろよ。ルスタンは神殿に行くって言ってたぜ」
「姫ですね……!」
 先にマティアスとクラムジーが行っているが、近衛兵に紛れ込んでいるスパイのことをサスキアはもちろんルースも知らないはずだ。
 急ぎましょう、とあづまは走り出した。

 陽が傾き始めた頃に息を切らせて神殿にいるサスキアの前に駆けつけたマティアスとクラムジーは、彼女だけに手短に危急を伝えた。
「……以前にも、魔術師の殺害で私達近衛兵が疑われたことがあったが、まさかそんな」
 さすがにサスキアもいきなりは信じられない様子だ。
 無理もない、とクラムジーは急く心を押さえて説得を試みる。
「自警団をまとめるアンセルは知っているでしょう。すべては彼が企てていたことだったのです」
 もともと話すことは苦手なクラムジーだが、ここは踏ん張って頭の中でまとめた内容をできるだけ正確に伝えられるように言葉を選んで話し続けた。
「いまだに捕まらない殺人犯……。そうか、あの晩、私達は神殿での仕事はなく、姫様の身辺警護にあたる者以外は待機となっていた。神殿の内部や魔術師の休憩に入る間隔など……私達ならよく知っている。手引きした者が……!」
 まったく気づかなかった悔しさに、サスキアは顔を歪めた。
「アンセルはもとの計画を諦めたが、他の一部はそうではないようで。どうか、今すぐ調査を」
「……」
 公国に来てからの苦楽を共にした仲間を疑うことを、サスキアは躊躇う。
「船を乗っ取った後、そいつらが後のことをきちんと考えてるかも怪しいじゃねぇか。そんな奴らに姫さんをいいようにされるのを黙って見てるのか?」
「マティアス……。そうだな、私の役目を果たさなくてはね」
「俺達も協力すっからさ」
 サスキアは表情を引き締めると、警備にあたっている近衛兵達を人目につかない場所に集めた。
 彼女は、二人から聞いたスパイの特徴を持つ容姿の者達を一通り見渡すと、彼らの名を呼び部下達に捕らえるように命じた。
 スパイ達はとっさに逃げようと身を翻す。
「早く捕らえよ! 彼らは裏切り者だ!」
 サスキアの鋭い声に兵達も身構えるが、それをスパイ達は剣を振って牽制した。
「クソッ。もう少しで成功するってのに!」
「お前達の主は、もう計画を変更したぞ! 知っているはずだ!」
 剣で応じながら、サスキアも声を張り上げる。
「たとえそうだとしても、あの伯爵が曲げるかよ! 今日までだって、町の連中をギリギリで生かしてるような奴だぞ!」
「話は後で聞いてやる! 武器を捨てろ!」
 スパイの数は三人だったが抵抗が激しく、なかなか捕まえられずにいた。
 彼らが逃げないように通りへ続く箇所で身構えていたマティアスとクラムジーは、まずいな、と目配せを交わす。
 剣戟の音で人が来るかもしれない。
 と、まさにその時、魔術師を連れたルースとベルティルデが顔を覗かせた。
「通報があって来てみれば、何やってんのよあんた達!」
 ルースの声が響き渡る。
「姫様、すぐ中に戻ってください!」
 ハッとしたサスキアが叫ぶと同時にマティアスはルースのもとへ駆け出し、クラムジーはせめて妨害になればと地属性魔法で足元の小石を操ろうと構える。
 ルースも事態を察したのか、すぐに神殿の中へ戻ろうとした。
 その時、彼女の前に人影が急接近してきた。
 姿勢を低くして疾駆するその手には光る凶刃があり、それはルースに狙いを定めて──。
「ベル、逃げなさ……!」
 横にいたベルティルデを突き飛ばしたルースの目の前に、マティアスが必死の形相で滑り込んできた。

イラスト:雪代ゆゆ
イラスト:雪代ゆゆ

 直後、背筋がゾッとするような音と崩れるマティアスに、ルースが悲しみと絶望の悲鳴をあげる。
 凶刃の持ち主──ルスタンは束の間ぼうっとしていたが、やがて何かにとり憑かれたような目をルースに向けた。
「おとなしく一緒に来れば……ぐっ」
 ボコッと鈍い音がして、ルスタンの額に小石がぶつけられた。
 クラムジーが操ったものだ。
「おとなしくするのは、そちらだ。自分が何をしようとしているのか、頭を冷やして考え直せ」
「クソッ」
 そこに、ルスタン、とアンセルの声が響いた。
 あづまは腹を押さえてうずくまるマティアスに気づくと、血だらけの手をどかせて怪我の具合を確かめた。
「暗くてよくわかりませんね……早く止血だけして、お医者様に診せましょう」
 あづまはマティアスの上着を割いて、きつく腹に巻き付けていく。ルースとベルティルデが手伝った。
 いつの間にか夕方になっていた。
 ルスタンはアンセルに刃物を取り上げられて押さえられ、スパイ達も近衛兵により地に組み伏せられていた。
 先ほどまで取り乱していたルースも、周りが静まるとしだいに落ち着きを取り戻し、ベルティルデの無傷を確認していた。
 神殿から騒ぎを聞きつけたナディア達が、マティアスを運ぶための担架を持ってきた。
 ついて行こうとするベルティルデをルースが止める。
「だめよ。私達は館に帰るの。サスキア、そいつらは自警団と警備隊に預けて帰る準備を」
「はい、すぐに」
 サスキアはスパイ達をアンセルに任せると、馬車の支度を部下に命じた。
「でも、彼を一人にするなんて」
 なおも抵抗するベルティルデに、ルースがピシャリと言った。
「自分の立場を自覚しなさい! あんたに何かあれば、箱船計画はおしまいなのよ!」
 発言の内容に、場にいた者達は混乱した。
「それは、どういう……?」
 何とか声を発したクラムジーに、ルースがハッとする。
 焦るルースを落ち着かせ、「もういいでしょう」とベティルデが囁く。
 彼女は全員を一度見渡すと、申し訳なさそうに言った。
「ウォテュラ王国の姫とは、本当はわたくしのことなのです。ルースが万が一を考えて、立場を入れ替えたのです。騙すようなことをしていて、申し訳ありませんでした。わたくしが、ルース・ツィーグラーです」
 誰も何も言えなかった。驚きの声をあげることさえも。
 サスキアですら知らないことだった。
 そもそもウォテュラ王国の姫は、ほとんど人前に姿を見せたことがない。公国に来たのも社交界にデビューする前のことだ。
 ずっと王家の城の離れで軟禁状態と言ってもよい環境に置かれていた。
 彼女が、水の継承者だったから。
 傍にいたのは、侍女一人だけだった。
 そんな告白を、薄れゆく意識の中でマティアスはぼんやりと聞いていた。

 

☆  ☆  ☆


「さあ、こちらが仕事と食事ができる職場ですよ!」
 意気揚々と水路工事現場を紹介するリュネ。
 彼の後ろには十数人の男女がいた。
 ここ数日、リュネは戸別訪問をして工事や簡易炊事場に必要な人手を集めてきていたのである。
 リュネが戻ってきたことを知った担当者が、それぞれを引き取っていった。
 そこにリルダが来て彼を労った。
「お疲れ様。人手はもう充分よ。ローテーションも組めるし、無理なく工事を進められるわ。ありがとう」
「いえいえ、これで工事が早く進められるなら安いものです」
「ところで、危ない目にはあわなかった? これだけの人数……大丈夫だった?」
「いいえ、何も。仕事とご飯があるとわかれば、求めている人は自然とついてくるものです。無理強いはしていませんよ」
「それならいいんだけど。あと、例のショベルは大活躍してるわよ。工事が早く進んでいるわ。フレンさんも苦心したかいがあったわね」
「ずい分と無理を言ってしまいました」
 それから話題はどちらからともなく、先日の神殿での騒動のことになった。
「まさか入れ替わっていたとはねぇ」
「痴漢事件と関係していたことも予想外だったわよ」
「怪我をされた方はご無事で?」
「命に別状はないそうよ。しばらく入院だけどね。姫が……ああ、みんなが知ってるルース姫が、責任感じて毎日お見舞いに行ってるわ」
「それはそれは……悪運の強いお方です」
 ルースとベルティルデが入れ替わっていたことはまだ一部の関係者しか知らないが、そのうち広まっていくことだろう。
「エリカが来たわね」
 大きく手を振りながらリルダを呼ぶのは、魔法研究所のエリカ・パハーレだった。隣にいるのがオーマ・ペテテだ。
「こんにちは、射出機の移動のことでお話に来ました」
 彼はここ連日、射出機や魔法学校などにある貴重品の移動準備に追われていた。
 射出機は分解できるので、旧天文塔から下ろす時は造船所から力自慢を借りることになっている。その後の設置場所は、マテオ・テーペの頂上になったので、岩ゴーレムはその時に使わせてもらいたいと思っている。
「射出機の移動は、障壁が狭くなる前にすませたいんだ」
「それがいいでしょうね。詳しい日付がわかったら、すぐに手配するわ」
「よろしく頼むよ。それで……岩ゴーレムって、俺でも動かせるのかな?」
「できると思うわよ。私からジョージさんと魔法具を預かっているイヴェットさんに話しておくわ」
「ありがとう。あとは……。あ、そうだ、貴重品の保管場所に造船所の倉庫を借りることになったんだけど」
 倉庫には、魔法学校の図書室にある書物や他の貴重品、それから水没してしまう貴族屋敷などの貴重品などが保管される。
「とりあえず、保管を頼まれる品のリストを聞いて回ってきたんだ」
 これ、とオーマはずらりと品名が並んだ紙をリルダに差し出した。
「けっこうあるのね」
「学校はともかく、貴族は持ち出したいものが多くてね。けど、倉庫のキャパシティもあるし……。たぶん、入りきらないものも出ると思うんだ」
「そうね……」
 そうなると諦めてもらうしかないわけだが。
 はたして持ち主の貴族が納得するかどうか。気難しい人もいる。
 しかし、オーマはそのあたりも考えていた。
「持ち主に何とかわかってもらって、町で必要としている人のために供出してもらえないかなって。えーと……バザー? 手元になくても、誰かが使ってくれることを納得してくれればだけど」
「なるほど。それに、ただでくれる人もいるでしょうけど、そうじゃない人もいるものね。言い方は悪いけど、安くても金銭取り引きがあれば後腐れがないかもしれないわね。うん、バザー、やりましょう」
 箱船出航前に、送別会が予定されている。その時にバザーもやろうということになった。
「面倒な作業になるけど、倉庫行きと出品の分別をお願いできるかしら」
「いいよ。ここまでやったら、もうね」
 決まりね、とリルダは微笑んだ。
 その後オーマは、興味津々のエリカと共に岩ゴーレムを見に行くことになった。
 これを見たくて、エリカはオーマにくっついてきたのだとか。

◆エピローグ
 その日、領主の館でベルティルデとルース、そしてアシルが応接室で対峙していた。護衛のアイザックは部屋の外に控えている。
 アシルは、話にならない、と首を振る。
 けれど、ベルティルデ──本当はルースという名──は、今日は絶対に引かないと決心していた。
「あの石をここに残します。ここの人達をただ時の流れに任せるだけなど、そんなことできません」
「そんなことをすれば、あなたの負担が大きくなるだけですよ。下手をすれば吹き溜まりの魔力の調整に失敗します。無駄死にするつもりですか?」
 アシルも譲らなかった。
「姫の力で洪水が静まるよう働きかけ、長い年月をかけてでも大地を取り戻す。そして、地上に生きる多くの人を生かす──そういう話だったでしょう? そのためには、私も含めここが犠牲になることもやむを得ないと、納得したのではなかったのですか?」
「あの頃のわたくしは、何も知らない人形でした……」
 ルースは悔いるようにスカートを握りしめる。
「けれど、わたくしはここで懸命に生きる人達と接してわかったのです。命の選別など、してはならないのです。移住地捜索を優先させます」
「綺麗事ですね」
「……この前、男の子に死ぬのは嫌だと言われました。わたくしは、その子に何も言えませんでした。そして次に、ベルを……『ルース姫』を守るために知っている人が大怪我をしました。その時も、わたくしは震えるだけでした。もう、あんな思いはしたくありません。会ったこともない世界の誰かよりも、ここで親しくしてくださった方々の力になりたいのです」
 これみよがしに呆れのため息を吐いてみせたアシルに、ずっと黙っていたルース──本当はベルティルデという名──が、口を挟んだ。
「あなただって、亡き公王のためだけに計画を進めてきたくせに。……公王は、自分の民を見捨てることをお許しになるかしら」
「……痛いところを突いてくれますね」
「姫が初めて自分で決めたことですから。侍女としては応援したいのですよ」
 それ以上はどちらも口を開かず、長い沈黙が続いた。
 どれくらいそれが続いたか……。
 ついに、アシルが諦めたような苦笑を見せた。
「わかりました。計画の要である姫が決意した時点で、私に勝ち目はなかったのですよ。──あなたの無事を、祈っています」

 自室に戻ったルースとベルティルデは、疲れたようにベッドに腰を下ろした。
「その時が来ても、最後まで自分の命を諦めたらダメよ。移住地を見つけて、みんなでそこに移り住んで、洪水も静めて、そして生き残るの」
「ええ。もちろんです。すべて果たしてみせます。そうしたら、ベル……わたくしと一緒に、自由に町を歩きましょうね」
 二人はささやかな約束を交わした。

 さらにこの月が終わる頃、多数の協力により、二つの水路、新居住区域が完成の目途が立った。
 そのため、細かい仕事を残して送別会の準備が始まった。
 障壁の維持に必要な特殊な魔法鉱石──聖石が神殿に残されることになったため、水路は長いほうのものが使われることになった。
 詳しい経緯は一部の人しか知らないことだが、障壁が少しでも広く保たれることに人々は喜び安堵していた。

 

 

個別リアクション

なし

 



◆アクション指針
・送別会に参加する
・箱船出航時、一心に祈る

◆連絡事項
・箱船乗組員希望者の方へ
シャオ・ジーランさん
ヴォルク・ガムザトハノフさん
コタロウ・サンフィールドさん
エリス・アップルトンさん
マティアス・リングホルムさん
審査通過の通知が届いた、として次回アクションをかけることができます。

イヴェット・クロフォードさん
ジスレーヌはほぼ強制的に乗船させられる予定です。
一緒に乗るか見送るか選んでください。
ジスレーヌの意志を尊重するという選択も有りです。

マルティア・ランツさん
箱船に乗ることができます。
乗るか、辞退するか選んでください。

マティアス・リングホルムさん
第8回の頃には、ほぼ普通に生活できますが激しい運動はできません。
箱船に乗ることには支障はありません。

 



こんにちは、冷泉です。
今回もご参加いただき、ありがとうございました!

次回のグランド側およびサイド側の時間の流れですが、サイド側→グランド側となります。
サイド側の結果によっては障壁内に影響が出ますが、グランド側で対処していただく必要はありません。

続いて、次回アクションの補足をします。
・送別会に参加する
出航前に行われるパーティです。
料理を作りたい、食べたい、歌や音楽で盛り上げたい、などがこれにあたります。
さらに、ひっそりと一人で過ごしたい、万が一に備えて警備する、という方もこちらを選択してください。
グランドに登場したNPC全員が出席します。
場所は、ログハウスとその周りの広場です。
・箱船出航時、自分は
箱船出航時、マテオ・テーペに残る人々は体力が著しく減衰します。
その時、どこでどうしているのかを書いてください。
出航組は体力的には問題ありません。ただし、水路際で見送る人々が倒れていくのを目の当たりにする可能性があります。
船で何をしているかを書いてください。

以上二つのアクションは、これまで通り一つだけを選択してもいいですが、次回のみどちらかに重点を置いて二種類のアクションをかけることもできます。
その場合は、選択肢を重視します。お間違いのないようにご注意ください。
アクション例)
選択肢:送別会に参加する
アクション:俺の歌を聞けぇ! 魂の解放だぁ! 何、人が倒れた? まだ早ぇだろ! おらァ、気合入れろぉ! お前らも腹から声出せ!
箱船を見送る時も、倒れるまで歌うぜ!

第8回のメインシナリオ参加チケットの販売は10月24日から11月1日を予定しております。
アクションの締切は11月2日の予定です。
詳しい日程につきましては、公式サイトお知らせ(ツイッター)や、メルマガでご確認くださいませ。

それでは、最終回もよろしくお願いいたします!